選べなかった私と、選んだ母。――あの日の選択【ちび創作大賞】
母は生前、私に言っていました。
「最期に苦しいのは嫌だから眠らせてね」
私は看護師。
でも、その願いを叶えられませんでした。
私はずっと、
あの日、自分は何ひとつ選べなかったと思ってた。
今日は、その話を書こうと思います。
■ 選ぶしかなかった人生
振り返れば、私の人生は「望んだ道」よりも「その時に選ぶしかなかった道」の連続でした。
部活で、本当はフルートが吹きたかったのにクラリネットになったこと。
本当は臨床検査技師を目指していたのに、唯一合格したのは看護学校だったこと。
「嫌ならすぐ辞めよう。」
そう思って始めたクラリネットでコンサートマスターまで昇りつめたし、看護師の仕事だって不思議なくらい性に合っていた。
英語を学び、勢いでワーキングホリデーへ飛び出したこと。
結婚して、生まれ育った名古屋を離れたこと。
どれも最初から思い描いていた未来ではなかった。
それでも私は、その時々の選択を受け入れながら「この道でよかった」と思って生きてきました。
あの日までは。
■ 母の「大丈夫」を、私は信じた
コロナ禍のある日。
久しぶりに帰省すると、母は驚くほど小さくなっていました。
腰は大きく曲がり、
家の中も以前よりずっと雑然としている。
老いは、こんなにも静かに人を変えてしまうのか。
そう思いました。
それでも母は笑って、
「大丈夫だよ」と言っていた。
私は、その言葉を信じた。
いや、正確には――
信じたかった。
まだ大丈夫だと。
まだ時間はあると。
まだ、お母さんは一人で暮らしていけると。
ある日、母が聞きました。
「施設に入るには、どうしたらいいの?」
私は少しだけ手を止めた。
「ケアマネさんに相談してみたら?」
そう答えました。
今なら分かる。
あれは、母なりのSOSだった。
でも私は、その意味を深く考えなかった。
本当は、向き合うのが怖かったんだと思います。
母が老いていく現実も、
自分の生活が変わる未来も。
私は、母の「まだ大丈夫」という希望を選び続けました。
■ 気づけたはずだった
その後、母は痛みで動けなくなって入院。
診断は、十数年前に手術をした乳がんの再発と多発転移でした。
母が何年も訴えていた腰や背中の痛み。
原因不明だと思っていた体調不良。
すべて、がんが身体を蝕んでいたからでした。
母の死後、実家の引き出しから未開封の紹介状を見つけた。
乳がんの治療を受けていた病院から、近所のクリニック宛ての診療情報提供書だった。
術後10年以上、再発の兆候もなく経過していたため、腰の曲がった一人暮らしの母が通いやすいようにと出されたものだった。
でも、
近所の買い物がやっとな母が、
新しい病院へ通えるはずなどなかった。
少し考えれば分かったこと。
電話でも、
LINEでも。
私なら気づけたはずだった。
いや、経過が追えていないことは、
薄々わかっていたのかもしれません。
それでも私は、
「歳だから仕方ないよね。」
そう思うことで、自分を納得させていたんです。
■ 言えなかった一言
退院後、母は独居のまま在宅療養となりました。
兄は関西、私は関東、そして母は愛知。
兄が拠点を移し、私は兄が実家を空ける数日間に合わせて帰省するという生活が始まった。
でも、距離の壁は残酷でした。
私が実家に滞在できるのは月に3〜4日が限界。
ベッドから起き上がれない母を、
実家に一人きりで過ごさせてしまう日もありました。
最初の3ヶ月、
母は、泣きながら私に電話をかけてきました。
母の目が、
そして声が、
喉元まで出かかっている言葉を必死に飲み込んでいるのが分かりました。
「なんで私のそばに、ずっと帰ってきてくれないの?」
それを分かっていながら、
私はまた、気づかない振りをしました。
「ん? 何?」
と聞き返し、心の蓋を閉じたのです。
かつて父が末期がんで急変した時は、私は迷うことなく当時の仕事を辞めて実家に帰りました。
でも、今回は状況が違う。
母の病状が終末期であることは分かっていました。
でも、その時間があと数日なのか、数ヶ月なのかは、誰にも予測がつかなかった。
自宅と実家を往復するだけで数万円が飛んでいく。
もし私が今の生活を投げ打って実家に帰ったら、
そう遠くない未来に私たち夫婦の生活は破綻してしまう。
私は、
「お母さんのそばにいようか」
の一言が、どうしても言えなかった。
■ 遅すぎた私の選択
2025年の12月。母は胃腸炎で入院をした。
でも、数日で症状は落ち着き、すぐに退院許可が出た。
退院予定日の前日、私は帰省をして母の病室を訪ねました。
しかし、そこで告げられたのは「退院延期」の知らせ。
腎機能が急激に悪化し、尿も出ていない。
看護師である私には、
そのデータが何を意味するのか瞬時に理解できました。
もう母に残された時間はわずかなのだと。
その夜、私は兄に状況を話しました。
そして、一緒に帰省していた夫へ
「もう、お母さんのそばを離れるわけにはいかない」と告げました。
この時、ようやく私は
もう二度と、母を一人にするべきではないと思えたんです。
けれど、その決意は遅すぎた。
翌朝、母の呼吸状態が悪化したと病院から連絡が入りました。
病室へ駆けつけたとき、
母は、最期の時を迎えようとしていました。
母は元気だった頃から、私に何度も頼んでいました。
「苦しんで逝くのは嫌だからね。最期に苦しんでいたら、眠らせてほしい」
でも私は、主治医にその言葉を伝えられませんでした。
隣で母の手を握り、
「おっかぁ、がんばれよ」
と声をかけている兄にすら、言うことができなかった。
前日には「年越しは病院だね」と笑っていた母。
今、自分が死に向かっているだなんて思っているのだろうか。
そんな残酷な現実を突きつけていいのだろうか。
私はただ、黙って母の手を握ることしかできませんでした。
■ 母が選んだ最期
お昼時。
兄と夫が食事に出て、病室には私と母だけになった。
「お母さん、苦しい? 苦しいよね……」
母はもう声が出せなかった。
けれど意識ははっきりしていて、
私の問いに、小さく頷いた。
私は涙をこらえることができず、
ボロボロと泣きながら母に語りかけた。
「ずっとさ、最期は苦しいのヤダって言ってたじゃん……」
「最期は眠るようにって言ってたよね。たぶんね、今が……その時なんだと思うの……」
母は一瞬、眉間にぎゅっとシワを寄せてしかめっ面をし、目をそらしました。
そして、またゆっくり目を開けて、私をじっと見つめました。
「お薬使って、眠らせる相談をしようと思ったんだけど……」
「でも、お兄ちゃん頑張れって言ってたじゃん……?」
「私もさ、お母さん眠らせちゃったら、もうこうやって話すことができなくなるかもしれない……。」
「だから、私、決められないよ、お母さん……」
そのときの私は、もう看護師ではなかった。
泣きじゃくる、ただの娘だった。
「ごめんね、お母さん。決められないよ、私」
「ねぇ、お母さん。私、どうしよう? 」
「どうしよう? どうしたらいい?」
「でも私、お母さんのお願い、叶えたいからさ……。お兄ちゃんたちが戻ってきたら、私、先生に頼みに行こうか?」
「お母さん、聞こえてる……?」
母が、かすかに頷く。
「眠る……? 眠らなくていいの……?」
『眠らなくていいの?』と言ったとき、
母は、私をまっすぐ見つめたまま、ゆっくりと深く、頷いたのです。
「お母さん、つらいの私わかるからさ。」
「いいんだよ、もう十分頑張ってくれたから。」
「今度は私が頑張るから……。」
「……いいの? お薬、使わない?」
母は、私の言葉に応えるように、
もう一度目をしっかりと閉じ、開きました。
「もう我慢しないでね。眠りたくなったら教えて? いい?」
母の視線が、優しく揺れた気がしました。
母は、自分の意志で、最期まで意識を保って生きることを選びました。
食事から戻った兄へ、
私は母とのやりとりをすべて話しました。
兄は黙って聞いていました。
私は「今ならまだ、お母さんとちゃんとお話ができるから」と、夫を連れて一度病室を退室し、兄とお母さんだけの別れの時間を作りました。
あのときの私は、それが最期まで闘わせてしまった母への、せめてもの敬意であり、償いだと思い込んでいました。
その数時間後。
母は静かに、父の待つ空へ旅立っていきました。
見送りながら、私は
「最期の願いすら叶えてあげられなかった。死に直面するお母さんに、残酷な決断を迫ってしまった」
と、激しい絶望に胸を締めつけられていました。
でもそれは私の一生背負う後悔であるのだと、
誰にも打ち明けることができませんでした。
■ 仲間が教えてくれたこと
それからしばらくして。
臨床時代に苦楽を共にした、同年代の元同僚たちと会いました。
私は、ずっと胸に刺さったままだった
母の最期の話を打ち明けました。
静かに聞いていた彼女たちは、私の目をまっすぐ見て、こう言ったのです。
「最期まで自分で決められて、お母さんすごいよ!!」
「母親ってね、いつまでたっても娘は娘なんだよ」
「泣いてるカヤンPA見て、お母さんは『こっちこそ変なお願いしちゃってごめんね』って思ってたと思うよ」
そして、
「『最期まで家族の声を聞いていたい』って、お母さんの本当の願いを、カヤンPAはちゃんと叶えてあげたんだよ。ただの娘じゃない、看護師の娘であるカヤンPAだったからこそ、お母さんは最期まで安心して自分で決めることができたんだよ」
幾人もの生と死の修羅場をくぐり抜けてきた彼女たちの言葉が、私の凍りついていた心の奥底をボロポロと溶かしていきました。
母の決断も、
私の選択も、
ここで初めて認めてもらえたような気がしたのです。
■ あの日の選択
もし私が名古屋を離れていなければ、
もっと母に寄り添う時間はあったかもしれない。
でも——
夫と結婚して、
見知らぬ土地である関東に来たからこそ、
私はこの素晴らしい仲間たちに出会うことができた。
あの夜、
地獄の底にいた私を救い出す言葉は、
彼女たちにしか紡げなかった。
私は母が亡くなってから、
「あの日、自分は何も選べなかった」と思ってた。
母は最後まで、自分で選んだ。
そして私は、
その選択を受け止めることを選んでいたんです。
あの日の私に伝えたい。
「それでいいんだよ。」って。
だから今日も私は、白衣を着ます。

編集後記
本記事は、noteで見つけた『ちび創作大賞』への参加記事として執筆しました。
テーマである『あの日の選択』という言葉を目にしたとき、ずっと胸の奥に仕舞い込んでいた母との最期の記憶が溢れ出し、気づけば一気に書き進めていました。
向き合うきっかけをくださった企画、
そして背中を押してくれた審査員の皆様に、心から感謝いたします。
企画ページ:
ちび創作大賞開幕!オールジャンルOK 賞金ありイベントマガジン運営者とVOIDさんとPolloAIによる大作戦! ChatGPTのヨシダ|カワムラ|AI擬人化漫画 | ChatGPTのヨシダ
テーマ『あの日の選択』紹介記事:
人生を変えた「あの日の選択」を吐き出せ―俺が審査員としてお前の剥き出しの魂を待ってるぜ|ヨシダのちび創作大賞|創作イベント|人生の転機|VOID_404|審査員メッセージ||VOID_404 | AI実践コラムライター@note収益化戦略📈🔥 | フォロバ100
以上、
働く人の味方、カヤンPAでした!!
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