【楽曲小説】『境界の街』
雨は降っていなかった。
それなのに、
石畳は薄く濡れて見えた。
夜霧だろうか。
それとも、
もっと別の何かか。
少女は街の入口で立ち止まり、
静かに息を吐いた。
見上げた先には、
古びた時計塔。
針は午前零時を指したまま、
まるで時間そのものが、
ここだけ止まっているみたいだった。
⸻
“この街に入った者は、
二度と戻れない”
そんな噂を、
彼女は思い出す。
迷い込んだ魂が、
永遠に彷徨い続ける街。
けれど、
少女は引き返さなかった。
何かを探していた。
ずっと昔に失くした、
名前のない“誰か”を。
⸻
街は静かだった。
窓に灯りはあるのに、
人の気配が薄い。
どこか遠くで、
靴音だけが響いている。
カツ、……カツ。
振り返る。
誰もいない。
けれど確かに、
“何か”が歩いていた。
⸻
少女は胸元を押さえる。
怖い。
なのに、
なぜか懐かしかった。
この街の空気を、
自分は昔から知っていた気がする。
⸻
やがて彼女は、
細い路地へ辿り着く。
そこには、
大きな鏡が立っていた。
雨にも風にも晒されているはずなのに、
不自然なほど綺麗な鏡。
少女が近づくと、
鏡の中の自分が、
わずかに遅れて笑った。
⸻
息が止まる。
その瞬間。
鏡の奥から、
声が聞こえた。
「……やっと来たのね」
⸻
少女は後ずさる。
けれど、
逃げることができない。
鏡の中の“彼女”が、
こちらを見つめていた。
自分と同じ顔。
でも、
目だけが違う。
深い夜を閉じ込めたみたいな瞳。
⸻
「あなたは……誰?」
問いかける。
鏡の少女は、
静かに微笑んだ。
「ずっと、
この街を守ってきた者」
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風が吹く。
時計塔の鐘が、
低く響いた。
⸻
「ここにはね、
帰れなかった思いが集まるの」
「終われなかった願い。
忘れられなかった記憶。
届かなかった心」
「だからこの街は、
夜のたびに迷い続ける」
⸻
鏡の向こうの少女が、
そっと手を伸ばす。
ガラス一枚隔てているのに、
温度だけが伝わってくる気がした。
⸻
「でも、
誰かが守らなきゃいけない」
「壊れてしまわないように」
「消えてしまわないように」
⸻
少女は静かに目を伏せる。
その言葉が、
なぜだか胸の奥へ深く沈んだ。
⸻
“守りたいものを守る”
その願いだけで、
永い夜を歩き続けてきた存在。
それはきっと、
呪いでもあり、
祈りでもあった。
⸻
遠くで、
また足音が響く。
街のどこかで、
彷徨う魂たちが、
今も迷い続けている。
⸻
少女は再び鏡を見る。
そこにはもう、
自分しか映っていなかった。
けれど、
確かに感じる。
誰かがまだ、
この街のどこかで、
静かに呼吸している。
⸻
時計塔の針が、
ゆっくり動き出す。
止まっていた時間が、
少しずつ夜を進めていく。
⸻
少女は歩き出した。
迷いながらでもいい。
怖くてもいい。
この街の夜を、
ちゃんと見届けたいと思った。
⸻
ここは、終われなかった想いが、
今も眠り続ける場所。
それでもなお、
誰かが守り続けている、
境界の街。
