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世界史の飾り窓142ナポレオン3世~自分の力以上のことをするからですよ~

 同時代人として、第二共和政の下で初めて行われた1848年大統領選挙でルイ=ナポレオンが当選するという事態を知ったマルクスは、『ルイ=ナポレオンのブリュメール18日』をジャーナリストとして活写した(平凡社ライブラリーで読めます)。ついでながら、以前に紹介したように、この年、マルクスはエンゲルスとの共著で『共産党宣言』を出版している。この意味(同時代性)も含めて想像してほしい。
 予想外の当選を果たしたルイ=ナポレオンは、単にナポレオン1世の甥というだけの、幻想と空論を弄ぶ小物だった。だが、「ナポレオンの名は、国内的には権威、宗教、人民の幸福であり、対外的には国家的権威を意味する」と言明するぐらい、徹底して唯一の財産である看板を利用した。国民は2度の革命と混乱(七月革命、二月革命)に辟易し、政情安定と「栄光あるフランス」を期待した。クーデタ(1851年)後の皇帝就任国民投票の結果、すなわち賛成783万票、反対5万票の大差が国民の期待の大きさを雄弁に物語る。
 過大な期待はすぐに失望に転ずることは、近年では1993年の非自民8党連立政権(細川首相)の成立、2008年の政権交代による鳩山民主党政権の成立に、戦前では1938年の近衛文麿政権で日本国民(有権者)は身に沁みてわかっているのだが(次に身に沁みるのは、大阪発の失望だろうか?)。
 話を戻す。皇帝となったナポレオン3世は、その看板ゆえに、彼は戦争に勝ちつづけなければならなかった。逆に負けたら終わりだったし、事実そうなった。普仏戦争中、セダンで捕虜となって皇帝を退位した彼はイギリスに亡命し、そこで静かに余生を過ごした。彼の面倒を見たのはイギリスの保守党の政治家ディズレーリ夫妻だった。
 ある日、ディズレーリ夫人とボートに乗ったときのこと。ナポレオン3世とディズレーリ夫人の乗ったボートと、二人の従者が乗ったボートとで競走することになった。自信満々にこの提案をしたナポレオン3世だったが、うまくオールを漕ぐことができず、一向にボートは進まなかった。にこやかに笑いながらディズレーリ夫人は「自分の力以上のことをしようとするからですよ」と言った。だが、その言葉はナポレオン3世の生涯そのものを言い表した言葉でもあったし、ナポレオン3世はその意味で理解した。気まずい沈黙がつづいた。しかし、二人はボートの上でクスクス笑い出し、それは大笑いになっていつまでもつづいた。
 ナポレオン3世の名前は、現在ではオスマンに取り組ませたパリ改造=都市計画の分野に残っている。中世以来の市壁を壊し、その跡地を環状道路(ブールヴァール)に利用、雑然とした市内をナポレオン1世の凱旋門を中心に放射線状に直線道路が走る近代的な都市に再生させた業績は大きい。これにパリ万博で建造されたエッフェル塔を加えれば、現在のパリの基本形になる。


 ただ、このパリ改造も、労働者や小市民が反政府行動を起こしてバリケードを作れないように、そして参加者を一網打尽にする目的を秘めていた。そしてその成果は、1871年、皮肉にも普仏戦争講和条約のあまりの内容に憤激・反対した市民たちの自治政府パリ=コミューンの鎮圧(=血の一週間)に現われた。

19世紀フランス・トリビア
① 『民衆を導く自由の女神』の作者ドラクロワは、革命期にアッシニア紙幣っで大儲けし、第一帝政ではナポレオンの侍従長を勤め、ウィーン会議では正統主義を提唱したタレーランの隠し子である。
② ナポレオン3世は国賓をアルミニウムの食器でもてなしたことがある(補足:電気精錬法による量産が始まっていない、ナポレオン3世の時代には、アルミニウムの価格は金の1000倍であった)。
③ 普仏戦争で出征する駅のホームで、高級将校の連れてきた山のような娼婦の群れを目撃して、ナポレオン3世は絶望的になっていた。結局セダンで捕虜になった。

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