NPD劇場―聖戦|第十一幕
新しい劇場の噂を聞いたと、若い役者は愉快そうに語る。
古い劇場は、もうお仕舞だと。
その言葉が、私に刺さり、血が流れる。
役者が舞台の机を足で蹴る、新しくしようと。
楽しそうに、仲間を誘いながら。
劇場は軋み、砂埃が舞う。
何がわかる!――私の舞台の何が。
とっさに役者を何度も床に叩きつけ、そして叫ぶ――古くはないと。
もう、舞台を蹴らぬようにと。
しかし、役者は立ち上がり、机を持ち上げようとする。
新しい机の方がいいと、寒そうな仲間を誘いながら。
劇場は歪み、砂が降ってくる。
何がわかる!――私の舞台の素晴らしさの何が。
役者を何度も壁に押しつけ、そして叫ぶ――新しさなど必要ないと。
もう、舞台を動かさぬようにと。
しかし、役者は立ち上がり、机を切ろうとする。
古い机を捨てなければと、凍り付いた仲間を誘いながら。
劇場は傾き、砂が降り積もる。
何がわかる!――私の苦労の何が。
役者を何度も柱に打ちつけ、そして叫ぶ――これが理想だと。
もう、舞台を切らぬようにと。
そして、役者は、じっと私を見て――静かに机を戻した。
解説
この物語は、NPD(自己愛性パーソナリティ障害)の主人公が、些細なきっかけから「自己愛憤怒」を生じさせる様子を、主人公の目を通して象徴的に描いている。一人の若い役者が、「新しい劇場の方が良い」と語る。主人公にとって、自分の舞台とは理想自己そのものであり、その否定はすなわち、自己の存在そのものの否定と受け取られる。その結果、役者が机を「蹴る」「持ち上げる」「切る」といった、些細な行為をしただけで、主人公はそれを、劇場全体の「軋み」「歪み」「傾き」——劇場そのものの破壊行為へと誇張して受け止めてしまう。
そして主人公の内面では、「自己愛憤怒」という過剰防衛反応が起こり、役者を「床に叩きつける」「壁に押しつける」「柱に打ちつける」といった、暴力的な空想の中での反撃が展開される。実際には、「古くない」「新しさは必要ない」「これが理想だ」という叫びだけが、役者に向けて放たれている。最後に、役者は静かに机を元に戻し、現実の世界へと回帰する。主人公が、守ったもの、そして、失ったものは何か、それを読者に問いかけている。
あとがき
きっかけは、ただの一言──「古い」。しかし、この言葉は、主人公にとって自己愛憤怒を引き起こすトリガー(地雷)でした。なぜ、NPDは、これほどまでに過剰な反応を示してしまうのか。その背後には、幼少期、主に親などから「理想でない自分」を否定されたときに刻まれた圧倒的な恐怖があります。それは、大人にはただの一言に聞こえても、子供にとっては「見捨てられる」「もう存在してはいけない」といった、底なしの恐怖として感じられるのです。
そして、大人になった今、再びそのトリガーとなる言葉を浴びたとき、心の奥に眠っていた恐怖のトラウマが、再び発動します。すると、その恐怖は目の前の相手に「投影」されます。つまり、NPDが戦っているのは現実の相手ではなく、かつて自分を否定し、恐怖を与えた“親の幻影”なのです。
その恐怖に裏打ちされた怒りは、長年の蓄積によって何倍にも膨れ上がり、やがて、投影された相手への攻撃として炸裂します。たとえ、それがいかに理不尽であっても、本人にとっては自己を守るための正義の戦いに他なりません。
過去記事「教祖も信者も自分──NPDという自己完結型宗教」でも述べたように、NPDは理想自己を“絶対神”とする原理主義者であり、この自己愛憤怒は、まさに理想自己を守るための“ジハード(聖戦)”といえるでしょう。けれど、それはあまりに孤独な戦いです。なぜなら、戦っている相手は他者ではなく、自分のなかにある“恐怖”なのですから。
