ミルクボーイの漫才の哲学性

みなさんご存知、m1で優勝したミルクボーイの漫才(オカンの忘れ物のネタ)について話したい。

私はこれを聞いた時、「これは哲学の固有名の問題ではないか」と思った。しかし、ざっと調べたところ、そのことに言及している言説がなかったので、簡単にこのnoteにまとめる。

まず、ミルクボーイの漫才のフォーマットを簡単にまとめると以下のようになる。

「うちのオカンがね、好きなA(例:朝ごはん)があるらしいんやけど、その名前をちょっと忘れたらしくてね」

「ちょっと一緒に考えてあげるから、どんな特徴ゆうてたか教えてみてよ」

「"a(Aに属する特定の事物)の本質的特徴を言う"」

「おー aやないかい その特徴はもう完全にaやがな」

「でもこれちょっと分からへんのやな、おかんが言うにはな、¬a(aでは明らかにない特徴)らしいねんな」

「あー、ほな、aとちゃうやないかい」

以下、繰り返し

ミルクボーイの漫才より

さて、まずここでは、おかんが忘れてしまったある事物aに対して、それを推察する、という行為が行われている。

しかしその際、ゼロからの推察ではなく、まず枠組みとしてのA、たとえば「それは朝ごはんである」という集合が与えられている。

その上で、一方の探し手が、もうそれを言ったらほとんどaじゃないかというようなこと、つまりaの「本質」と言えるような特徴を述べる。

すると聞き手としては、「そんなのもうaしかないじゃないか」という気持ちになる。

しかし、そこですばやく探し手が「でもおかんが言うには」と続け、明らかにaではない特徴、つまりaに含まれない記述を行うことで、

聞き手は「ほなaではないでないか」となり、オチを迎える。

つまり、
「A」⊃「a」⊃「aの本質」
という構造に対し、「¬a」というものをぶつけることで、笑いが起きる仕組みである。

ここで議論したいのは以下の二つである。

・これは哲学の固有名の問題の変奏ではないか
・なぜこれが面白いのか

まず前者から。

哲学では、固有名は確定記述の束に還元できるか、と言うことが長らく議論されてきた。

例えば「私」自身を考えた時に、それは男性で、日本人で、2025年に生きていて…とその特徴となる要素をあげ続けていけば、その特徴の束はまさに「私」を指し示す、つまり私の名という固有名と置き換え可能ではないか、と考えることができる。

しかし、どこまで特徴を並べ立てても、本当にそれが私かどうか保障できないだろう。確定記述の束をどれほど広げても、それは私には到達せず、それが「私」であると言い切ることは難しいということは、ある程度理解してもらえるのではないか。

さらにいえば、後から「実は私は女性であった」ということが判明したとしよう。こうなった時、では「私」は「私」でなくなるのだろうか?おそらく通常の社会あれば、そこで「私」という概念は訂正され、「あの人は女性だったのだよ」となるだろう。

ミルクボーイの漫才は、ここを鋭くついている。もうほとんどaやないか、と言いたくなるほど本質的な特徴を述べたところで、反例a¬が出てくることは避けられない。私は何年生まれのどこどこ所属といっても、それで私を説明し切ったことにはならない。「ほなちがうかー」の可能性は残され続けているのだ。

そして、「ほなちがうかー」となった場合、現実ではそこで訂正がおこる。実はaの本質は違ったのだ、と訂正され、言語のやりとりはつづいていくのだ。

さらに面白いことは、この漫才は前提としてのA、つまり「朝ごはんである」という集合が与えられることで始まっているということだ。考えてみれば、「朝ごはんである」という限定もある意味ではa(コーンフレーク)の特徴であるとも言える。つまり朝ごはん(A)はコーンフレーク(a)を含むとも言えるし、逆にaの特徴としてAがあるとも言えるのだ。先の例に当てはまれば、確かに私の特徴として日本人であるということが言えるが、一方でそれは日本人という集合に私が含まれるとも言えるのだ。しかし、この漫才は「朝ごはん」というものを暗黙裏にaを含む集合であるという前提を置くことで、始動しているのだ。

では、なぜこの漫才は面白いのだろう。
原因はざっと3つ考えられる。
(そしてこれは普遍的な面白さであるように思われる。というのも、顔芸や間の取り方が上手くなくても、そしてミルクボーイでない人がやっても面白いからこそ、これはミーム化されたのだから。)

まず第一に、¬aの例示が絶妙であることが挙げられるだろう。例えばコーンフレークのネタでは、「オカンが死ぬ前に食べたいと言っている」という特徴が¬aとしてあげられる。Aとaの本質的特徴で挟み込む形で析出されたa(コーンフレーク)に対し、確かにそれはaの特徴ではないけれど、それをaから外すことは言い過ぎではないか、あるいはaの価値低下につながるのではないかと思わせる絶妙な¬aをぶつけることで、面白みが生まれているのだ。

第二の面白さは、一度上記のネタセットが終わり、2周目でaの本質的特徴を述べる際に、一周目の「サクサクしていて牛乳をかけて食べる」のようなコーンフレークの形態的本質特徴ではなく、多くの人が共感できる「慣習的本質特徴」を持ってくる点にある。たとえば、コーンフレークは「みんな子供の時に憧れていた」などという特徴だ。ここで、その特徴でaというのは言い過ぎだろう、ということで笑いが起きるわけである。つまり、aの本質というものは多人数の共感のもとに成立うるという前提のもとで、でもその特徴(子供の時に憧れていた)ではみんなの共感は得られないよ、という笑いが起きているのだ。

そして三つ目、それは、この漫才が実際はそうとは言い切れない哲学的議論を真面目に現実に適応しているからではないか。

つまり、この漫才は固有名は確定記述の束には還元できない、ということを表している。もちろん哲学的には、固有名は確定記述の束に還元できないのだろうし、それは(権利問題としては)真実である。しかし、実際問題としては、そんな馬鹿真面目に考えて会話は行われていない。aの本質的な特徴を挙げたが、それが¬aによって否定される時、「じゃあオカンは何を探しているのか」となり、笑いが起きるのである。その笑いは確かにオカンを馬鹿にする笑いではあるだろう。しかしその裏には、もしかすると固有名は底抜けかもしれないという不気味さが漂っている。

漫才の最後、ついに「オカンが言うにはコーンフレークではない」つまり、「aではない」という究極の¬aが提出され、「オトンが言うにはそれはサバの塩焼きではないか」、つまりオトンという外部審級からの新しい固有名「サバの塩焼き」が示されて、この漫才は幕を閉じるのである。

(慌てて出先で書いたものゆえ、修正中)


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