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『開戦前夜』――戦争の世紀を、日本という場所から見つめ直す

映画『開戦前夜』という題名を目にしたとき、私は単に「戦争を振り返る映画」ではないように感じた。

20世紀は、しばしば「戦争の世紀」と呼ばれる。

二度の世界大戦。
植民地支配。
民族対立。
大量破壊兵器。
そして、広島・長崎への原子爆弾。

人類はこの100年ほどの間に、それまで手にしたことのないほど巨大な科学技術と経済力を獲得し、その力を「豊かさ」のためだけでなく、「支配」と「破壊」のためにも使った。

けれど私は、20世紀という時代を眺めていると、ときどき不思議な感覚を抱く。

そこには、人間の意図だけでは説明しきれない、

「大いなる存在の、大いなる意図」

のようなものが流れているのではないか、と。

もちろんこれは歴史学の話ではない。

戦争を正当化するためでもない。

むしろ、人類がなぜこれほどまでに大きな悲劇を経験しなければならなかったのかを、文明というもっと長い時間軸から考えてみたい、という私自身の問いである。

人類は「力」をどこまで使うのか

近代文明は、人間に巨大な力を与えた。

科学。
工業。
金融。
国家。
軍隊。
情報。
大量生産。

私たちは、それらによって自然を変え、遠くまで移動し、莫大な物を生産し、国家という巨大なシステムを動かせるようになった。

しかし20世紀、その力は極限まで拡大した。

「より強い国になる」
「より多く所有する」
「より大きな経済をつくる」
「より強い武器を持つ」

その延長線上で、人間はとうとう、一瞬で都市そのものを消滅させられる兵器まで生み出した。

だから20世紀は、

「力によって世界を支配すれば、人間は幸せになれるのか」

という問いを、人類が自らの身体で体験した世紀だったように思う。

その中心的な舞台の一つが、日本だった

その物語の中で、日本という国は非常に特異な役割を演じている。

日本は西洋列強による植民地化が世界を覆っていた時代に、急激な近代化を成し遂げた。

そして、西洋型の国家制度、産業、教育、軍事を猛烈な勢いで取り入れた。

富国強兵。
殖産興業。
近代国家。
帝国。
戦争。

日本は、西洋近代文明を追いかけるだけでなく、自らもその巨大な力の世界へ入っていった。

そして1945年。

日本は敗戦を迎え、広島・長崎では原子爆弾という人類史上かつてない破壊を経験した。

その後、日本は再び立ち上がった。

今度は軍事国家としてではなく、製造業、技術、貿易、経済の力によって。

焼け野原から高度経済成長へ。

そして世界有数の経済大国へ。

この振幅の大きさを考えると、日本はまるで、

西洋近代文明の可能性と限界の両方を、短期間に凝縮して体験した国

のようにも見えてくる。

『開戦前夜』が問いかけるもの

『開戦前夜』という作品を、私はまだ単なる「戦争反省映画」として見たくない。

開戦へ向かう直前の日本には、さまざまな情報があり、さまざまな判断があり、当然ながら異論もあったはずだ。

それでも社会全体は、ひとつの大きな流れへ飲み込まれていった。

ここで私が考えたいのは、

なぜ人間は、情報を持っていても流れを止められないのか

ということである。

空気。

同調。

権威。

正義。

恐怖。

世論。

そして、

「みんながそう思っている」

という感覚。

人間は必ずしも、事実だけで動くわけではない。

むしろ多くの場合、

自分が所属する社会の物語によって動いている。

だからこそ「プロパガンダ」という言葉も、単純に「相手が騙している」という意味だけでは捉えたくない。

本当に怖いのは、

自分自身が信じたい物語の中に、プロパガンダが入り込んでいることに気づかないこと

ではないだろうか。

戦前の日本人だけの問題ではない。

現代の私たちも同じである。

テレビ。
SNS。
専門家。
政治家。
インフルエンサー。
アルゴリズム。

情報は増えた。

しかし情報が増えたからといって、私たちが自由になったとは限らない。

むしろ、自分の信じたい情報だけを見ることが簡単になった時代でもある。

だから『開戦前夜』を見るとき、

「あの時代の人々は間違っていた」

と安全な場所から裁くだけでは、少しもったいないと思う。

問うべきなのは、

もし自分がその時代に生きていたら、私は空気に抗えただろうか。

そして、

今の私は、本当に自分自身で考えているだろうか。

ということではないだろうか。

日本は、なぜこれほど大きな役割を演じたのだろう

ここからは、私自身の少し大きな仮説になる。

私は、日本という場所には20世紀を通して、何か象徴的な役割があったように感じている。

日本は、西洋近代を猛烈に受け入れた。

軍事化した。

敗戦した。

原爆を経験した。

そして経済成長した。

大量生産、大量消費、大量廃棄の社会も経験した。

そして今、日本は人口減少、少子高齢化、地方の衰退、成熟経済という、これまでとはまったく違う局面に入っている。

これは「衰退」なのだろうか。

私は、必ずしもそうとは思わない。

もしかすると日本は今、

成長し続けなければ成立しない文明から、別の文明へ移る入口

に立っているのではないか。

20世紀に失ったものを、21世紀に結び直す

日本には、近代以前から続く別の感覚も残っている。

自然を征服するのではなく、自然とともに暮らす。

個人だけでなく、場を大切にする。

勝つことより、和を整える。

奪うことより、分かち合う。

人と人が助け合う「結い」。

目に見えるものだけでなく、気配や間を感じる感性。

もちろん、昔の日本が理想郷だったという話ではない。

けれど、この感覚は今でも、日本語、日本文化、地域社会、祭り、農、職人仕事の中に、伏流水のように残っているように思う。

私は以前から、それを「ネオ縄文」という言葉で考えてきた。

縄文に戻るのではない。

AIや現代科学を捨てるのでもない。

むしろ、

最先端の技術と、いのちを中心にした古い感性を結び直す。

そこに、これからの日本の役割があるのではないか。

「世界の中心」という意味

ここでいう「日本が世界の中心になる」という言葉は、世界を支配するという意味ではない。

軍事大国になることでもない。

経済大国に戻ることでもない。

私が感じている「中心」は、

異なるものが出会う「結び目」

という意味である。

東洋と西洋。

科学と精神。

AIと人間。

経済と自然。

都市と地域。

個人と共同体。

物質的豊かさと、心の豊かさ。

どちらかを否定するのではなく、その間に新しい関係をつくる。

日本には、その役割を担える文化的な土壌があるように思う。

戦争の世紀から、結び直す世紀へ

もし20世紀が、

「力を極限まで試した世紀」

だったとするなら、

21世紀は、

「その力を、いのちのためにどう使うのかを学ぶ世紀」

になるのかもしれない。

AIもそうである。

核エネルギーもそうである。

金融もそうである。

科学もそうである。

技術そのものに善悪があるのではない。

その力を、支配のために使うのか。

競争のために使うのか。

それとも、人と人、人と自然を結び直すために使うのか。

問われているのは、私たち自身なのだと思う。

だから私は『開戦前夜』を、

「昔、日本は戦争を始めて失敗しました」

というだけの物語としてではなく、

「人間は、どのようにして大きな流れに飲み込まれるのか」

そして、

「私たちは、その流れをどのように変えることができるのか」

を考える映画として見てみたい。

20世紀、日本は世界の矛盾を大きく引き受けた。

そして21世紀。

その日本が、今度は世界の矛盾を結び直していく。

そんな役割があるとしたら――。

戦争の記憶を振り返ることは、過去へ戻ることではない。

まだ見たことのない未来を創るために、私たち自身の意識を見つめ直すことなのだと思う。

『開戦前夜』。

この映画を入り口にして、私はもう一度、

「人間は、何のために文明を創るのか」

という問いを考えてみたい。

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