歌うとき、自分の声を「確認するな」
「自分の声を聴かないでください」
「確認しないでください」
「声を操作して作らないでください」
古いベルカント唱法を教えるM先生の、初回のレッスンで言われたことだった。
まだ入門すると決めていたわけではない。まず一度、話を聞きにいった。そのメソッドによって、先生自身がどのように歌うのかを目の前で確かめたかったのだ。
先生は最初に、静かに方法論の根幹を話した。
自然な状態に置かれれば、身体のさまざまな働きが結果的に組み合わさって、その人の総合的な歌声になる。
だから、大きな筋肉を直接操作しない。声を意図的に作らない。完成した歌声を分解して、頭で組み合わせようとしない。
これは、深く納得できる話だった。
私はそれまで、ハリウッド式を含め、いくつかのボイストレーニングを習ってきた。身になったものも少なからずあった。
しかし、それでも満足できなかった。
客観的に歌が上手いか下手かという話ではない。自分の中で自由に歌えているか。歌っていて苦しいのか、気持ちいいのか。自分が出した演奏に、自分で満足できるのか。
私は長い間、その狭間で右往左往していた。
いろいろな部分を操作し、理想の歌へ近づこうとする方法の限界も感じていた。だから、先生の話には納得した。
しかし、それが実際に一体どのようになされるのかは分からない。
私は先生に次々と質問した。
姿勢はどうするのですか。
背筋はどうするのですか。
呼吸はどうするのですか。
支えはどうするのですか。
先生は、特別な構えをする必要はないと答えた。
そして床に座り、背骨を曲げ、身体を丸めたような状態のまま、『誰も寝てはならぬ』の終盤の高音を歌った。
ものすごい響きだった。
いかにも歌うための姿勢でもなければ、大きな声を出すために踏ん張っているようにも見えない。
それでも耳をびんびんと刺激するような声が、簡単に出てきた。
先生は言った。
「関係ないです」
私は、魔法を見た(聴いた)ような気がした。
もちろん、意識を変えただけで誰にでも同じことができる、という話ではないだろう。先生にはきちんとしたクラシックの基礎があり、その方向で重ねてきた訓練もある。
ただ、少なくとも、私が絶対条件だと思っていたものは、絶対条件ではなかった。むしろ邪魔だった可能性が大きくなってきた。。
胸を開く。背筋を伸ばす。腹を支える。深い響きを作る。
それらは、完成した歌声に見られる「それらしい条件」でしかなく、真なる歌声と似て非なるもののようだ。もちろん、この古いベルカントの価値観においては、であるが。
さて、では
先生は何をして、その声を出しているのか。
そこが魔法だった。それを知りたかった。
私の最初の練習は、遮らないファルセットの、純粋な音を出すことだった。
私はまず、私なりに歌った。
すると先生は、私が付け加えているものを一つずつ取り除いていった。
力を抜く。構えをやめる。響きを作ろうとしない。声を押さない。
そうしていくと、私の歌はずいぶん腑抜けたものになった。
軽い。とても楽だ。そして、手応えがない。
「そうです。それです」
先生はそう言い、その場でiPadを使って録画したものを再生した。
「きちんと響いているでしょう」
確かに、録画された声には響きがあり、高音まで苦しくもなくつながっている。
だが、歌っている私には手応えがない。
足場がない。踏ん張れない。
何かを省略して、手を抜いて歌っているような感じさえした。
すると、なんだか妙で、不安になる。
本当にこれでいいのか。声は出ているのか。
響いているのか。音程は大丈夫なのか。
私はつい、自分の状態を見ようとした。
踏ん張ったり調整したりする意識を使わなくなると、その意識が行き場を失い、中ぶらりんになってしまう。
自分の中でバランスを取ろうとして、目が泳ぐ。
先生は、それを音で聞き分けた。
先生がチェックしていたのは、音程が合っているか、リズムが合っているかでなく
私が、自分の声を聴きながら歌っているか
自分の状態を確認しながら歌っているか
である。
音を聞けばすぐに分かるのだという。
音程は合っている。形も整っている。
しかし、自分を確認しながら出した声は、閉じた響きになる。
一つの音なら、自分を忘れて出すことができるかもしれない。
しかし音階になり、リズムが付き、曲になっても、自分を見ずに歌い続けられるか。
一曲、三分間、自分を捨てたままでいられるか。
先生が見て聴いてるのは、そこだった。
私は、身体を操作しなくなった意識を、どこへ持っていけばよいのか分からなかった。
先生は言った。だから、精神的なものが出てくる、と。
なるほど
だから同時に、自分を見ず聴かず、前を向く。
つまり、
自分のことは、もういい。
大丈夫だから、確認しないで、前を見ろ。
そういう教えだ。
おお!そのとき、私は流しと同じではないかと思った。
流しの現場で、うまくやろう、失敗しないようにしよう、こうすれば受けるだろうと計算しながら歌っても、お客さんは感心してくれるかもしれない。
しかし、感動までいくか?
どれほど完成度が高くても、歌い手の関心が自分の出来栄えに向いていれば、その歌はどこかで閉じている。
反対に、目の前の人へ全身で向かってくる歌には、簡単には文句をつけられない。
そんなサービスを、日常の中で受けることはほとんどないからだ。
これは、技術をなくす方法ではなく、技術の中へ隠れられなくする教えだった。
身体の操作や、自分の出来栄えの確認に逃げることができなくなれば、意識は前を向くしかない。
その場に身を預け、最前線にいる。
私は後に、これは心をサボらせないためのメソッドなのだと思うようになった。
そして、三分間の歌だけに使うものではないとも思った。
初回のレッスンで、私はこの教えに深く納得した。
けれど、納得することと、できることはまったく違った。
手応えのない声に身を預け、自分を確認せず、前を向く。三分どころか数十秒で、葛藤がすぐに顔を出す。
ここから約十年、「確認しない」という歌い方を学び続けることになる。
