魚の味が消える①|冴えないビンチョウマグロが、途中で別物になった日
子供の頃、外食するのに今日は何を食べたい?と聞かれると、だいたいお寿司と答えていた。お肉好きの母と兄は、いつも結託していて、なんとかしてステーキハウスに行こうとする。父はなんでもいいというタイプだったので、当てにならない。わたしはいつも声を大にして、いかにお寿司がおいしいかを熱弁していた気がする。
わたしにとってお寿司は、この世で一番おいしいごはんだった。酢飯が好きということもあったが、なによりも生の魚が好きだった。ひとは毎日同じごはんを食べていたら飽きると言うが、わたしは一週間、朝昼晩とお寿司を食べても平気なくらいだった。
ただ、お寿司事情も今とは違う。当時の寿司桶に入っていたネタって、マグロ、イカ、エビ、光りもの、穴子、玉子、いくら、ウニ、細巻きあたりが主流だったように思う。
さらに、マグロは真っ赤だった。鉄分がしっかりしていて酸味もちょっとある、濃厚な味わい。それがマグロと思っていたけれど、今ってスーパーでもいろんなマグロが当たり前にある。なかでも、ビンチョウマグロは、わたしのなかではかなり異質だ。
色も薄いし、そもそもビンチョウとかビンナガとか、名前までややこしい。
このビンチョウマグロがよく見られるようになったのは、回転寿司が広がって、ネタとして扱われるようになったからだと思う。
でも、回転寿司で人気があるのはビントロというやつで、脂がのった部位。スーパーでよく見るのは、そこじゃない。なんだかちょっと冴えない魚。(と思っているのは、わたしだけ?)
あくまでも、ビントロではなく、ふつうのビンチョウマグロの話だけれど、そもそも脂のノリがよろしくない。水分が多くて、味がうすくて、ぼんやりだ。だから、なかなか食指が伸びない。
とはいえ、ちょいちょいお安く売っているのが、こいつのニクいところ。先日も、スーパーパトロールの際に発見してしまった。
ちょっと迷ったけれど、値段を見て決意する。今度こそおいしく食べてやろう、と。
家に持ち帰り、パックのままのマグロを、いったんテーブルに置いて眺めてみる。
よくあるのはヅケだけれど、それじゃあ、つまらない。
とりあえず、なんかやってみるかぁ。
そう思って席を立ち、台所に立った。
パックから取り出したマグロに、すっと包丁を入れる。
その瞬間にわかる。やっぱりちょっと頼りない。水分が多くて、身がやわらかい。あの赤身のマグロみたいな“ピンとした張り”がない。
少し崩れた端っこを、そのままつまむ。
うん、ぼんやりしていて冴えない感じ。なにも起きない。目には入っているのに、味としては意識にのぼってこない。風景に溶けた透明人間みたいに、すーっと通り過ぎていく感じ。
さぁて、どうするか。
こういうときは、とりあえずベースの強化だ。香りのネギ、輪郭をつくる塩、あとはコクのゴマ油。ネギ塩で和えれば、ぼんやりさんも少しは整うはず。
ネギが塩と油に馴染んだ頃、マグロにのせて食べてみる。
まぁまぁ、ふつうにおいしい。鉄の味とまではいかないけれど、それなりにマグロ。さっきまでの“水っぽさ”が引っ込んで、味になる。
でも、これは単に、ビンチョウマグロがおいしくなっただけの話。もう一歩いけそうな気がして、レモンを足す。
ぎゅっと絞った瞬間、表面がふっと白くなった。透明だった身が、うっすら曇る。カルパッチョの、あれだ。外だけ締まって、中はそのまま。あの、ぎゅっと詰まる感じ。
レモンで味を足した、というより、マグロの状態を動かした感じ。
状態が変わると、見え方が変わる。ぼんやりしていたものが、シュッと立って、流れが出る。やっぱり酸と脂だよなぁ、と満足する。
田村正和が古畑任三郎になった途端、強烈に推したくなる。たぶん、ああいう感じだ。(ちがう)
ただそこで、ふと、青梅の醤油漬けが頭をよぎった。
もうちょっと、なんかやってみる?
保存瓶が並んだ棚から、お手製の青梅の醤油漬けを取り出す。青梅の果肉が、醤油の旨みとコクをすみずみまで吸い込んだやつだ。昨年漬けた、もうすぐ一年もの。ひと粒取り出し、刻んで、さっと和えてみた。
うわっ、え、なにこれ?
なんかわからんけど、うまい。
マグロの味がしない、というわけではない。でも、マグロを食べているという感覚が消えている。ネギも、油も、レモンも、それぞれちゃんと仕事しているはずなのに、個別に認識できない。なのに、全部が強い。バラバラだった要素がひとつの現象になっている。
これ、単にビンチョウマグロが美味しくなった、という話ではない気がする。いや、美味しくはなってるんだけど、たぶんそういうことじゃない。
ネギ塩で整えて、レモンで締める。そこまでは想定内の味だった。それなのに、青梅を入れたところで、何かが突然起こった。整った、の先のなにか。まとまった、というより、もう一段、別のところにいってしまった。
ビンチョウマグロはぼんやりしている、という印象は、たぶん間違っていない。でもそれは、なにも手を加えていない、その状態で見たときの話でしかない。それだけはたしかだ。
でも、なんで、青梅の醤油漬けで?
そのナゾは、いまだ解き明かされていない。
これはたぶん、しばらく未解決事件として残るだろう。
🐟️今日の設計「整えた先で、逸脱する」
主体:ビンチョウマグロ
骨格:塩+油で輪郭とコク
方向づけ:レモンで締めて流す
転換点:青梅醤油漬け(核・統合)
構造:調整 → 統合 → ひとつの現象になる
(手順)
・マグロを切る
・ネギ塩をつくる
(食べる)
・レモンを足す
(食べる)
・青梅醤油漬けを刻んで投入
ぼんやりの救済は、塩と酸だけじゃなかった。
青梅醤油漬けが起こしたミラクル。
このナゾはいずれ解明される、かも。
【実験ログ】
対象:ビンチョウマグロ
仮説:塩と酸で輪郭を出せば整う
操作:ネギ塩 → レモン → 青梅追加
結果:整う → 突然別物になる
観察:個が消えて、全体がひとつの現象になる
※この話は、次の記事へ、ゆるく続きます。
魚の味が消える②|カツオが、消えた。
※この記事は、はてなブログ「今日も懲りずに『脳みそ散歩』」に掲載したこちらの記事をもとに、note創作大賞応募用に整えたものです。
