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ビル・エヴァンスのピアノが、こんなにも孤独な理由

仕事帰りの夜、疲れて帰宅してビル・エヴァンスをかけると、何かが静まる感じがする。

それが何年も続いていた。
なぜ彼の音楽がこれほど自分に刺さるのか、
長い間うまく説明できなかった。
美しいとは思う。
繊細だとも思う。

でもそれだけでは何かが足りない気がして、
もう少し近づいて聴いてみようと思った。

ビル・エヴァンスの音楽でまず気づくのは、
音と音の間の静けさだ。

多くのピアニストが音を埋めていく方向に動くとすれば、エヴァンスは空白を大切にする。
音を弾くことと同じくらい、 
弾かないことに意味がある。
その間が、聴いている側の内側にじわりと
入ってくる。
気づくと自分の呼吸が、
音楽のペースに合わせられている。

タッチは柔らかい。
強打しない。

でも弱いわけでもない。
一音一音に重さがある。
その重さが音符の長さではなく、
余韻の中に残る。
鍵盤から指が離れた後も、
音がまだそこにある感じがする。

エヴァンスはドビュッシーやラヴェルをはじめとするフランス近代音楽の影響を強く受けていた。

その影響が最もはっきり出ているのが、和音の使い方だ。
ルートレス・ヴォイシングと呼ばれる技法があって、コードの根音をピアノで弾かない。
ベースが根音を担っているから、ピアノはそこから自由になれる。
根音がないと、和音は宙に浮く。
地に足がついているのに、どこか空中にいるような感覚。

初めてその仕組みを知ったとき、疲れた夜に感じていた「静まる感じ」の一端がわかった気がした。
あの浮遊感は偶然ではなく、意図された選択から生まれていた。
聴き手を興奮させるのではなく、内側へ向かわせるための音だった。

スコット・ラファロというベーシストとのトリオは、エヴァンスの音楽を語る上で外せない。

1961年6月、
ニューヨークのヴィレッジ・ヴァンガードでのライブ録音は、今もジャズ史上最も重要な録音の一つとされている。
「Sunday at the Village Vanguard」と「Waltz for Debby」として残されたその演奏を聴くと、三人が対等に対話していることがわかる。

ドラムがリズムを刻み、ベースが土台を支え、ピアノが旋律を弾くという固定された役割ではなく、三つの声が絡み合いながら同時に動いている。

誰かが主役で誰かが伴奏という関係ではない。それぞれが自分の声を持ちながら、相手の声を聴いている。

そのライブの11日後、ラファロは交通事故で亡くなった。25歳だった。

ラファロを失った後、エヴァンスの音楽はさらに内省的になったと言われる。

後半生は薬物依存との戦いでもあった。
それでも弾き続けた。
晩年の演奏を聴くと、技術的な華やかさより、一音に込められた重さの方が増している気がする。
何かを削ぎ落とした先に残ったものを、
そのまま鍵盤に置いているような演奏だ。
装飾が減るほど、一音の意味が濃くなる。

1980年、51歳で亡くなった。録音を残し続けた。

エヴァンスのピアノが孤独に聴こえる理由を、今は少し言葉にできる気がする。

彼の音楽は、聴き手を慰めようとしていない。共感を求めていない。
自分の内側にある何かを、ただ正直に音にしている。
その正直さが、聴いている側の内側にある何かに触れる。
慰められるのではなく、自分の中にあったものを見せられる感じだ。

それが、疲れた夜に静まる理由だったのかもしれない。
誰かにわかってもらえた感覚ではなく、
自分の中にある孤独をそのまま肯定されたような感覚。
エヴァンスの音楽は、
孤独を消してくれるのではなく、
孤独のままでいていいと言ってくれる。
その静かな肯定が、あの余韻の中にある。

彼の音楽をきっかけに、
ジャズをもう少し深く聴くようになった。

最初は「なんとなく落ち着く音楽」として聴いていたものが、構造を少し知ると全く違って聴こえる。
浮遊する和音がなぜ浮遊しているのか。
あの余白がなぜ余白でいられるのか。

知れば知るほど、
一つの音の背後にある選択の重さが見えてくる。
そしてその重さを知った上で聴くと、
同じ曲がまた別の顔を見せる。

音楽は知らなくても楽しめる。
でも少し知ると、別の扉が開く。
エヴァンスはその扉を開けてくれた最初の一人だった。
ありがとう、エヴァンス。

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