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令和と昭和 男子中学生の異なる恐怖。令和のマニュアル婚活は必然だった。

いつの世も男子中学生の願いは同じ。「彼女が欲しい」。 しかし、昭和と令和では、その難易度も背景もまったく話が異なる。

昭和の若く未熟な僕らは、いわば「野生」むき出しで突撃していった。 そんな僕らが最も恐れるもの、それは……。

携帯電話のない時代、意中の女子に連絡するには、家の固定電話にかけるしかなかったのだ。そして万が一、お父さんが出ようものなら恐怖が待っている。

「娘に何の用だ」

あの低い地鳴りのような声。 あの瞬間、冷や汗をかきながら、僕らは「かろうじて致命傷」という、もはや矛盾としか言いようのない死の淵を何度も経験してきた。

ただ僕らは、致命傷を負っても仲間に笑われるだけで復活できる環境にあった。 何度も恥をかき、玉砕し、そのたびに仲間にイジられながら、次第に「野生を知性(マナー)で隠す能力」を身に着け、少しずつ大人になっていったのだ。

しかし、今の令和はそれが許されない。

令和の失敗は、笑い話にはならない。
不用意に剥き出しにした「野生」は、スクショ一枚で可視化され、永遠に消えない「デジタルタトゥー」としてネットの海に放流される。一度でも「キモいヤツ」という烙印を押されれば、彼らの居場所は一瞬で消え去る。

勘違いしないでほしいが、僕の言う「野生」とは、暴力的な振る舞いや、相手を無視した強引さなどの排除されて当然の行為のことではなく、理屈を超えて誰かに惹かれたり、触れたいと願うような、人間らしいエネルギーのことだ。今、それは言葉にすることすら「リスク」として除菌されている。

令和の彼らは、失敗が許されない環境を生き延び、そして成長してきたのだろう。 そして婚活という戦場に向かうとき、野生を隠し知性で振舞うためにはマニュアルが必須となったのではないだろうか?

それはまた彼女らも同じであろう。 「減点」されないようにマニュアルを熟読し、完璧な人間として向かわなければならない。


本来、ある人にとっての「良妻」は、別の人にとっては「悪妻」というのは当たり前に起こることだが、今の婚活においてはマニュアルにある平均的ないい人を演じなければ相手にされない。

それは傍からみると、野生どころか個性まで消すことを求められているように感じる。

うまくマッチングしても、今度はお互い、いつマニュアルを脱いでいいのかわからない。下手に脱ごうものなら即ブロックという恐怖。その恐怖が彼ら自身をさらにマニュアルの奥底に押し込んでしまう。


そんな様を見ていて、ふと思い出した古い映画がある。シルベスター・スタローン主演の映画『デモリションマン』だ。

舞台は、あらゆる犯罪や無作法が根絶された2032年の未来都市。そこでは暴力はもちろん、塩分の摂りすぎや汚い言葉遣いまでもが厳しく管理され、違反すればマシンから即座に罰金チケットが吐き出される。

徹底的に「除菌」されたこの世界では、生身の人間同士が触れ合うことは「不潔でリスクの高い行為」とみなされている。男女の営みですら、お互いの脳波をデジタルで同期させるヘッドセット越しに行われ、直接接触は野蛮な過去の遺物として忌避されているのだ。

野蛮な過去からやってきた主人公が、ヘッドセットを投げ捨て「生身で愛し合おう」と誘ったとき、未来の女性が向けたあの「汚らわしいものを見るような拒絶の目」を、僕は忘れることができない。

今の婚活マニュアルを脱げない若者たちも、同じ恐怖を抱えているのではないか。


昭和の僕らは運が良かったのかもしれない。
僕らが経験した「かろうじて致命傷」は、次へと進むための通過儀礼だった。だが、令和の彼らにとっての失敗は、文字通りの「死」に近い。

昭和が何を偉そうに語っているのかと自分でも思う。
だが、二度と戻れない「不器用さが許された野生の時代」の記憶を抱えたまま、この清潔すぎる婚活の最前線を眺めていることしかできないのだ。


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