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興国寺城(城旅・北条早雲・続日本100名城)

北条早雲(伊勢新九郎盛時)興国寺城で「伊豆討ち入り」に向け旗あげ!

画像:Google Gemini により生成

2025年12月、静岡県沼津市根古屋の「興国寺城(こうこくじじょう)」に登城しました。興国寺城は続日本100名城に選定されています。
こちらも、蒲原城と同じく貸し切りでした~

興国寺城は、愛鷹山の尾根を利用して築かれています。北から北曲輪、本丸、二ノ丸、三ノ丸が直線的に造られ、東側には清水曲輪と呼ばれる曲輪が配されていました。 本丸の背後には、天守台と伝えられる高台があり、発掘調査によって2棟の礎石建物跡が見つかっています。瓦の出土がないことから、天守の存在は確認されていません。
伝天守台の土塁と北曲輪の間には、幅20mもの巨大な大空堀が横たわります。当時は、本丸・二の丸の辺りに三日月掘も掘られていたそうです。

この城は、戦国時代に関東一円を支配した後北条家の始祖である「伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)」別名「北条早雲(ほうじょうそううん)」の旗揚げの城とされています!

Gemini君の画像は雰囲気妄想図です。北条早雲のお名前は後日付けられたもので、新九郎自身が名乗ったことはありません。家紋も「北条鱗(ほうじょううろこ)」(背の低い二等辺三角形が3つ並んだ鱗紋)ではなく、伊勢氏の紋である「対い揚羽蝶(むかいあげはちょう)」であったと思われます。

二の丸から本丸と伝天守台を望みます
巨大な土塁が連なります
高尾山穂見神社
「初代城主 北条早雲碑」お隣には、最後の城主・天野康景の碑があります

長享元年(1487年)、伊勢新九郎盛時(北條早雲)が駿河守護今川家のお家騒動を解決して、姉の「北川殿」の息子であった「龍王丸(りゅうおうまる)」を七代目当主に就けました。伊勢新九郎は後の代に北条早雲と呼ばれた人物で、京都では将軍の申次衆を勤める幕府の役人でした。
新当主となった「今川氏親(いまがわうじちか)」は伊勢新九郎を勲功第一として「富士郡下方十二郷」を与えて興国寺城主としました。

「新九郎奔る!(ゆうきまさみ作)」第17巻より引用
今川・武田・北条、まさにみつどもえ

興国寺城は伊豆に近く、北条早雲が幕府の要職に就いていたこともあり、室町幕府の事実上の将軍となっていた「足利清晃(あしかがせいこう)」の命を受けて、伊豆堀越御所にいる清晃の異母兄「堀越公方・足利茶々丸(あしかが ちゃちゃまる)」に奇襲をかけました。これを「伊豆討ち入り」と呼びます。
北条早雲の手勢は200人、ここに今川氏親に借りた300人を合わせた総勢500人が10艘の船で西伊豆の海岸に上陸しました。西伊豆の住人は、海賊の襲来かと慌てふためき、家財道具を背負って山に逃げたとされています。地方の一武将に過ぎない北条早雲が、室町将軍家の茶々丸を打倒したことで、この「伊豆討ち入り」が下剋上の始まりと言われています。

伝天守台下に石垣が遺ります
最上部の伝天守台へ向かいます
伝天守台、晴れていればこの方向に富士山が
大空堀の向こうに北曲輪
右側は断崖絶壁の大空堀
本丸土塁から直下の本丸を見下ろします
西側の櫓台から伊豆半島を望みます(晴れれば)
東側土塁
東側から大空堀へ降ります
岩盤ぶち抜きです
幅20mの大空堀
北曲輪へ登る急階段
北曲輪は立入禁止でした、この先に東海道新幹線が奔ります!
大空堀の西側へ
何の穴ですか?
何たる角度でしょう

北条早雲が伊豆へ渡った以降も、今川氏による城郭の改修が続けられました。この城のある駿河東部は、今川氏・武田氏・北条氏が同盟と奪い合いを繰り返していました。興国寺城もその中心として最前線が置かれる重要な城でした。

本丸土塁

「ゆうきまさみ」さん作の「新九郎奔る!」は、いよいよクライマックスの「伊豆討ち入り」が近づいていると思います。わくわくが止まりません。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

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