【いい加減に生きる⑥】エピローグ・もう、知ったことか!
退職届に書かされた「一身上の都合」という言葉。
ネットを開けば「診断書があれば特定理由離職者になれる」という威勢のいい言葉が並んでいますが、現実はそんなに甘いものではありませんでした。
【あの日々の記録(ダイジェスト)】
・9月10日: 復職。
・9月13日: 退職メールを送信。
・9月15日: 最終出勤。
「一身上の都合」での処理。
・9月19日: 心療内科初診。
「適応障害」の診断。
1、ハローワークという「冷たい窓口」
12月2日。私は、ようやく届いた離職票と、退職までの経緯をまとめた資料、そして診断書を手にハローワークへ向かいました。
適応障害に至った経緯、理不尽な業務指示の数々。それらを公的な場で説明し、今の状況を認めてもらえると思っていました。しかし、窓口の対応はどこまでも事務的でした。
「この用紙を持って、医師に『就労可能(働いても良い)』という許可をもらってきてください。これがないと、特定理由離職者としての手続きは進められません」
ようやく「病名」という囚われから離れ、前を向き始めた矢先のことでした。ハローワークは、回復して問題なく働ける状態でなければ、認めてもらえる場所ではない。
またあの高い診察料(文書料やシステム利用料を含め、1万円を超えます)を払って、一度は打ち切った診察を受け、書類をもらわなければならない。
門前払いのようなシステムの仕組みに、私はやりきれなさを感じました。
(※大事なことなのでもう一度言いますよ! ハローワークに行くということは、もう症状は回復して「働ける」状態である必要があります。ここ、ご注意くださいね!)
2、「世間の甘い言葉」と、目の前の現実
ネットには「傷病手当を最大までもらってから、失業保険に切り替えれば数百万円手に入る」といったライフハックが溢れています。
実は、産業看護師さんからも、その手順(産業医面談から心療内科受診など)の話は出ていました。しかし、当時の私にそんな悠長なことをしている余裕なんてありませんでした。
頭も働かない、呼吸も浅い。お金よりも何よりも、まずはこの場所(職場)から物理的に離れることが先決だったのです。
損得を考えて「仕事を辞める、辞めない」を判断できるような状況ではありませんでした。段取りよく動けるほど、「適応障害」という状態は簡単ではありません。
SNSの情報を見てしまった私が悪いのかもしれません...…。
「もっと上手いやり方があったのか?」と、ふと考えてしまうこともありましたが、あの時の私には、あのタイミングで組織との関係を断ち切ることしか、自分を守る道はなかったのです。
3、悔しさを、静かな「着地」へ変える
投げ出したい気持ちの一方で、どうしても譲れない思いがありました。
このまま「一身上の都合」を受け入れてしまったら、私の26年も、あの理不尽な日々も、全部「なかったこと」にされてしまう。
会社と戦う気力はもうない。でも、自分の意思で辞めたことにされるのは、無性に悔しい。どこにもぶつけようのないこの思いを、せめて公的な書類の上だけでも、事実として残したい。
私は再びオンライン診療を受け、先生にハローワーク指定の書類を書いてもらいました。それを提出し、ようやく私の離職区分(受給資格)は「一般受給資格者」から「特定理由離職者」として認められました。
※私が該当した「特定理由離職者」
体力不足・心身の障害・疾病・負傷などにより、従来就いていた業務を続けることが不可能又は困難となったために離職した方。
それは、会社に非を認めさせたわけでも、大金を得たわけでもありません。
ただ、組織から押し付けられた「一身上の都合」という名目を、事実に基づいた形(特定理由離職者)に書き換え、今の生活に必要な制度(社会保険料の減免)にたどり着いた……。
それが、精一杯の「落としどころ」でした。
4、良い加減(あんばい)に生きていく
① 私は、あの組織を捨てたのだ!
職場にパワハラを認めさせ「特定受給資格者」になれば、給付日数は240日になります。一方、今回認められた「特定理由離職者」だと150日。その差は小さくありません。
ハローワークの窓口で「会社都合にはならないのか」と聞いてはみましたが、担当者は面倒そうに「会社が認めない限り難しいし、時間もかかる」と答えるだけ。
26年の間、組織が「正職員」のことは守るけれど、「パートや嘱託職員」、「気に入らない職員」はあっさり切って捨てる光景を嫌というほど見てきたので、もし泥沼の争いになれば、また組織の論理に振り回されることになることは容易に想像できました。
「これ以上関わったら、また自分がどん底に落ちる」私は瞬時にそう思い、おざなりな説明を受け入れました。
そう...…、これ以上の労力を使って過去の泥沼に足を踏み入れるより、今の自分にできる生活の整え方を積み上げる方を選んだのです。
『フフフ、私が、あの組織を捨ててやったのよ! もう、知ったことか!』
② 自分のペースで呼吸する!
そして今、私は母の介護をしながら、穏やかな時間を過ごしています。
母のケアマネさん、訪問診療の女医さん……。私の周りには、いつの間にか優しい方々が集まっていました。
乳がん術後の不安、退職したこと、適応障害のこと。母のことだけでなく、この数か月、ずっと私を気にかけてくださりアドバイスをいただきました。
訪問アロマを紹介いただき、私の場合のリンパの流し方やケアの仕方を教わりました。
申し訳ないと思いながらも、InstagramやThreads、そしてこのnoteに気持ちを綴ることで、推しの仲間「チームけいちゃん」からも温かな言葉をいただきました。
26年守り続けてきた場所はなくなりましたが、その代わりに、自分のペースで呼吸できる毎日を取り戻しました。
③ 私らしい、賢い生存戦略!
とは言え、無職になってしまった私は、自分の知恵で生活を営んでいかなくてはなりません。今の自分にできる「賢い生存戦略」を一つずつ積み上げる方を選びながら...…。
それが、新しい「ぱる」の、一番しなやかな「心の整理」なのだと思っています。
ふと自分の指先を見ると、あの日、ストレスで半分まで無残にむしり取っていた爪が、今はきれいに伸びています。ボロボロだった指先が元に戻ったことは、私にとって何よりの「回復」の証です。
一歩を踏み出し、一つずつ手続きを済ませた自分を、今は褒めてあげたいと思います。
これからは、「良い加減(いいあんばい)」に、生きていこうと思います。
結構、難しいけれどね……(笑)。
【あの日々の記録】
2025年9月10日
復職。しかし、そこにはもう私の居場所はなかった。
9月11日
出勤。あふれる涙を拭うため何度もトイレに駆け込む。
9月12日
定休。ただただ、涙が止まらない。
9月13日
定休。退職メールを送信。
9月14日
定休。Aさんから電話。個人の優しさに触れる。
9月15日
最終出勤。26年の幕引き。「一身上の都合」での処理。
9月16日
有給消化初日。即座にアカウント停止、アクセス権剥奪。
9月19日
オンライン診療初診。「適応障害」の診断。
9月27日
再診。症状変わらず。
10月11日
再診。一旦終了を伝える。
10月31日
退職日(有給消化完了)
11月4日
役所にて社保から国保への切替手続き。
11月14日
最終給料振り込み日
12月1日
離職票が届く
12月2日
ハローワーク(求職申込、離職理由40)
12月6日
オンライン診療再診(就労可否証明書の依頼)
12月9日
ハローワーク(雇用保険説明会)
12月11日
就労可否証明書がメールで届く
12月12日
ハローワークにて「離職理由33(特定理由離職者)」へ変更。役所にて国保の減免申請。
12月15日
健康保険税請求書が届く(12月分払い込み)
12月23日
ハローワーク(第1回目認定日)
2026年1月20日
国民健康保険税の通知届く。97,600円から21,500円へ。
(完)
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