表現という祈り
気づいたこと。
私は過去に絵を描いたり、いまは詩を書いたり、こうしてnoteに文章を書いたりしているけど、下書きのフォルダを覗くと同じようなテーマの記事がいくつも溜まっていて、
「また同じことを書いている」
「いつまで同じこと引っ張ってんだ」
って自分で思ってしまう事があった。
でもいま気づいたのが、
表現(創作活動)って、自分を癒し、励ます、祈りなんじゃないかってこと。
昔、私は、ある曲、小説、映画、漫画、絵画、
あらゆる誰かの表現に救われていた。
その中でも、過酷な生い立ちを歌うラッパーや、孤独や欠落を抱えた人物が登場する漫画によって、深い部分が癒されることがあった。
言葉にできなかった感情を、誰かが代わりに表現してくれていた。それで生き延びられたと言っても大袈裟じゃない。
でもある時、ふと思った。
「でも、この人、何年も同じことを言い続けている」
「もしかして、傷は結局癒えないのかな」
私は、回復とはそのことを忘れたり、そのことが無くなることだと思っていた。
だから、同じ傷を何度も表現する作者に、「まだ囚われているんじゃないか」と感じたことがあった。
私は最近、過去の経験の記憶や、自分の暗い面を、無いものとしたいとまで思っていた。
でも、表現することでそれらを無理矢理消すことなく、自分の一部として持っておくことができるのかもしれない、と感じた。
表現することは、作者が自分と何度も対話する作業なのかもしれないって事だった。
同じことを言っていたとしても、表現すること自体が癒しになっていることがあるように感じた。
それに、何度もまた同じテーマに向かってしまうことを無駄と言いきれる?
自分のnoteの下書きも、読み返してみると同じテーマでもアプローチが違っていたりする。
そのとき自分がどう感じていて、どんな表現を使ったのか。
全部そのまま自分の生きてきた記録になる。
何度も表現している中で、「その事」との関係性が変わっている。
つまり、過去に閉じ込められているのではなく、その時毎回自分で過去を癒し、励ましに行っている。
または、自分が自分に新しい視点を教えている。
それは、誰かに救ってもらうのではなくて、自分が自分の味方になる行為になっている。
しかも、それって自分を癒すだけじゃなく、世界のどこかにいる自分(同じ思いを持っている誰か、または何かを探している誰か)も励ましている事があって、
自己対話であり、同時に誰かへの祈りにもなっていたりする。(私がかつて心を動かされた作品みたいに)
って、
ここまでは、治療的な側面についての気づきだけど、もう一つ気づいたことがある。
別の側面で、表現(創作活動)は、何度も同じ問いを掘り下げる探求になっている。
その場合、同じ問いに何度も違う角度から向き合っていたり、一見違う出来事をランダムに表現する中でも同じテーマに辿り着くことがあって、
これらは一見違うように見えても、どれも表現を通して、自分自身?世界?を旅してるみたいだ???
それに気づいたら、自分のゴミ箱みたいな下書きの山も、同じテーマに対するしつこさも、なんか面白く思えてきた。
….って、ここまで御託を並べてきたけど、
単純に楽しいからそれで良いと思った。
楽しいから掘って
面白いから表現して
楽しすぎんだろうが!!!
