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自由研究|「本音」について考えてみた

人と話していて、ふと思うことがあります。今の私って、本当の気持ちで話せているのかな?って。建前と本音、表向きの顔と素の自分...。社会で生きていく上で身につけた処世術が、いつの間にか自分の本当の気持ちを見えなくしているような気がするんです。今回は「本音」について、じっくり考えてみませんか?🤔


1. 【基本編】定義を考えてみる

|辞書的な意味から始めてみる

まずは素朴に、本音とは何なのか調べてみました。基本的に「本当の気持ち」「偽りのない心」といった意味で使われるみたい。対義語は「建前」や「表向き」。とてもシンプルだけど、これだけでは物足りない😅

「本音」という言葉自体、日本語独特の表現なんですよね。英語にすると「true feelings」「real intention」といった具合になるけれど、なんだかニュアンスが微妙に違う。日本には「本音と建前」という文化的な背景があるからこそ生まれた言葉なのかもしれません。

|文化と社会的背景

日本的な本音と建前の文化は、集団の調和を重視する社会から生まれたもの。相手のことを思いやって、直接的すぎることは言わない。そのやさしさが、逆に自分の本当の気持ちを見失わせることもあるんですよね。

西洋では個人の意見をはっきり言うことが美徳とされるけど、東洋では察することや空気を読むことが重視される。どちらが良いとか悪いとかじゃなくて、文化の違い。でも現代の私たちは、その狭間で揺れているような気がします🌙

2. 【体験編】自分なりに思うこと

|初めて「本音」を意識した瞬間

思い返してみると、子どもの頃は本音も建前もなかった。嫌なことは嫌、楽しいことは楽しいって、ストレートに表現していました。

初めて本音を隠すことを覚えたのは、小学校の高学年頃かもしれません。友達の誘いを断りたいけど、嫌われたくないから「うん、いいよ」って言ってしまった時。その瞬間、自分の中に「本当は嫌だ」という気持ちと「いい子でいたい」という気持ちが同居していることに気づいたんです。

|大人になって複雑になった本音

社会人になると、本音と建前の使い分けはもっと複雑になりました。上司への報告、取引先との会話、同僚との雑談...。それぞれの場面で、適切な「顔」を使い分けることを覚えていく。

でも時々、疲れてしまうんですよね💭「今の私って、どれが本当の私なんだろう」って。いろんな顔を使い分けているうちに、どれが素の自分なのか分からなくなってしまう。きっと同じような経験をした人も多いはず。

3. 【探求編】深掘りしてみた結果

|太宰治の痛切な洞察

日本の文豪たちも、本音について深く考えていました。特に印象的だったのが太宰治の言葉。

人間は、誰でも心に一つの嘘を抱いて生きているものです。その嘘が、人間を人間たらしめているのかもしれません。

(太宰治『人間失格』)

これ、すごく複雑な気持ちになりませんか?嘘って悪いことのように思えるけど、実はそれが人間らしさでもあるって。完全に本音だけで生きていたら、社会は成り立たないのかもしれません。

太宰治は、こんなことも書いています:

恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。

(太宰治『人間失格』)

本音を隠すことへの罪悪感、でも隠さざるを得ない現実。この葛藤は、現代の私たちにも通じるものがありますよね。

|夏目漱石の人間観察

夏目漱石も人間の心の複雑さについて書いています:

真面目とは何の事だか、私にはとんと解らない。人間の性格は複雑だ。

(夏目漱石『こころ』)

本音って、実は一つじゃないのかもしれません。その時々の状況や相手によって、違う本音が顔を出す。それが人間の複雑さであり、面白さでもあるんですね✨

|哲学者たちの本音論

西洋の哲学者も本音について考察しています。デンマークの哲学者キルケゴールは:

人生を理解するためには、後ろ向きに生きなければならない。しかし、人生を生きるためには、前向きに生きなければならない。

(セーレン・キルケゴール)

これって、本音と建前の関係にも当てはまる気がします。後から振り返ると「あの時の本音は...」って分かるけれど、その瞬間は前に進むために適切な言葉を選ばなければならない。

フランスの哲学者サルトルは、こんな興味深いことを言っています:

人間は自由の刑に処せられている。

(ジャン=ポール・サルトル『存在と無』)

本音を言う自由もあれば、建前を選ぶ自由もある。でもその選択の責任は自分が負わなければならない。重いけれど、それが人間の宿命なのかもしれませんね。

4. 【実践編】もう一度考えてみる

|本音を言ってみる実験

太宰治の言葉に触発されて、意識的に本音を言ってみる実験をしてみました。といっても、いきなり何でもかんでも本音を言うのは危険すぎるので、まずは安全な範囲から🌻

「今日疲れてるから、飲み会パスしたい」とか「その映画、正直あんまり面白くなかった」とか。そんな小さな本音から始めてみたんです。

効果は予想以上でした。最初は「嫌われるかも」って不安だったけど、意外と相手も「実は私も...」って本音を返してくれることが多かった。本音って、伝染するものなのかもしれません。

|本音と建前のバランスを探る

でも、何でもかんでも本音を言えばいいってものでもないことも分かりました。相手を傷つけてしまったり、場の空気を壊してしまったり...😅

漱石の言う通り、人間は複雑。その複雑さを受け入れて、状況に応じて使い分けることも必要なんですね。本音100%じゃなくて、建前0%でもない。その間のどこかに、自分らしいバランスがあるのかもしれません。

|失敗談も含めて正直に

正直に言うと、失敗もありました。

職場で上司に対して、ちょっと率直すぎる意見を言ってしまって気まずくなったり。友人に本音をぶつけすぎて、関係がギクシャクしてしまったり。

そんな時、サルトルの「自由の刑」という言葉が身に染みました。本音を言う自由には、その結果を受け入れる責任が伴う。それも含めて、本音なんですね。

5. 【まとめ編】結局、私にとって何?

|文学が教えてくれた答え

この探求を通して気づいたのは、本音に正解はないということ。でも、ヒントはたくさんある。

太宰治が教えてくれたのは、建前や嘘も含めて人間だということ。漱石は、人間の複雑さを受け入れることの大切さを教えてくれた。キルケゴールは、本音が時とともに変化することを、サルトルは本音を選ぶ自由と責任について教えてくれました。

|季節のように変わる本音

面白いことに気づいたんです。本音って、季節みたいに変わるものなんですよね。

疲れている時の本音と、元気な時の本音は違う。一人でいる時の本音と、誰かといる時の本音も違う。それでいいんだって思ったら、なんだかすごく楽になりました🌸

無理に一つの「本当の自分」を見つけようとしなくていい。その時々の本音を大切にして、でも相手のことも思いやりながら、適切な伝え方を選んでいけばいいんですね。

|私が見つけた「本音の種」

今回の探求で見つけた、私なりの本音との付き合い方をいくつか。

安全地帯の種:信頼できる人には、できるだけ本音で話すこと。そういう関係があるだけで、心が軽くなる。

タイミングの種:本音を言うタイミングって大切。相手の状況や気持ちを考慮して、適切な時を選ぶこと。

優しさの種:本音だからといって、相手を傷つけていいわけじゃない。本音に優しさをまぶして伝えること。

許容の種:自分が建前を使ってしまった時も、相手が建前で話している時も、それはそれで受け入れること。

変化の種:本音は変わるもの。昨日と今日で気持ちが違っても、それが人間らしさ。

これらの種を大切に育てながら、自分らしい本音との付き合い方を見つけていけたらいいなって思います✨

|完璧じゃない本音でいい

結局思ったのは、本音って完璧である必要がないってこと。

矛盾していても、曖昧でも、それが人間らしさ。太宰治の言う通り、「嘘」も含めて人間なのかもしれません。大切なのは、自分の気持ちに正直でいること。そして、その気持ちを適切に表現する方法を学んでいくこと。

|あなたの本音は?

この記事を読んでくださった皆さんにも、きっとそれぞれの本音があるはず。私が見つけた答えが正解じゃないし、あなたの答えと同じである必要もない。

でも、もしよかったら考えてみてください。あなたにとって「本音」って何ですか?どんな時に本音を言いたくなって、どんな時に建前を選びますか?きっと、その答えの中に、あなただけの美しい発見があるはずだから🌙

私たちは皆、自分なりの本音を生きている。それって、とても人間らしくて素敵なことだと思いませんか?

あとがき

この記事を書きながら、改めて思った。本音について考えることって、それ自体が本音と向き合うことなのかもしれない。自分の気持ちを大切にできる、そんな余裕があるということだから🌟

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