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挫折、ブレーキ、感覚遮断――昭和のおばちゃんの来歴

目も耳も閉ざそう。家庭に入る頃、そう決めました

応援弁士

高校2年ですから1964年まで時を巻き戻します
東京の下町から乗り換えて通学するので
体の変わり目もあったのでしょう
駅の階段で手すりにすがるように
ゆっくり休み休み登ることが数年続きました

なのに生徒会長に推薦されそうでした
選挙に出ること自体無理です
友達に相談しました

「代わりに出てもいいよ」
弟や妹の多い長女のしっかりものの友人が
引き受けてくれました

彼女の立場を悪くしたくないので
同じ中学を出た先輩の中から、壇上でスピーチが出来ることと
先生たちと関係がよく生徒からも信頼されている男子に
応援弁士をお願いし
彼女は無事生徒会長になりました

代わってもらったのですから
出来ることがありホッとしました

教育実習と幻滅

地元の中学に教育実習に行きました

同窓生は飛騨、千葉、本土復帰前の沖縄など
それぞれの母校に打診し受け入れていただき
久しぶりに帰省出来ると喜び
各地へ行ったと記憶しています

教育実習は無事済みました
国語の先生が私の担当で指導して下さっています

この先生とは別に当時40歳くらいの
中3の時の担任がおられました
女性で家庭科の先生です

職員室の席に戻ろうとすると
元担任が呼び止め
「あなたは見ておいた方がいい」と
そっと教えてくれました
元担任が見せたいのは
口論する先生達の姿でした

内容までは分からないのですが
とても幻滅した覚えがあります

憧れ

1950年頃のことです
母が結核で亡くなりました
上のきょうだいは小学生です
当時20代前半の担任が家庭訪問で
我が家の家庭事情に気がついて下さり
校長と調整し私を連れてきてもいいように
して下さりました

父は生涯感謝していました

田舎のことですから、女性はてぬぐいを
あねさんかぶりに、男性は麦わら帽子を
被るのですが、先生と行き合うと
手ぬぐいや帽子を脱いで深くお辞儀をしました

それは権威だからではなく
子どもが世話になっていることと
教育への信頼がありました

今でも「お医者様」と使うことがあります
故郷では「先生様」と、大人は呼んでいました

保育園や幼稚園世代の私には
小学生のお兄さんお姉さん達が習うことは難しいのですが
自分の椅子がありますし
授業を聞くか、生徒達を観察するか
窓を見上げて空を見ていました
教室で授業を聞くのは苦にならない子でした

こうした環境から教師を目指しました
土と共に生きる人々の中で
私の知らないことを教えてくれる存在は特別でした

ブレーキを踏む

民間の教育産業を選んだのは
口論が嫌なのではなく、あの種類のストレスには
耐えられないと直感したからです
本能としか言えません

けれど、あの頃の私は世間がせまく
色んなことに怒りを覚える若者でした
そんな気持ちを私小説にするために
自分と向き合うこと
心の内面を見つめることは
精神的なバランスを崩すと感じ
私は筆を折りました

出典: 書くことをあきらめた日から、いま語るということへ|鈴木薫
URL: https://note.com/p_s_n/n/n23e9a509f34f

筆を折ったことも自分を守る判断が出来ています

「応援弁士」で書いた高校時代の思い出も「ブレーキ」でしょう

これらは、足首の骨結核と分かるまでの3年と
手術とリハビリなどを通し
私は自分の体の声に耳を澄ますことを覚えたように思うのです

ものごころついて偏食だったことが
無理なものは無理としか言えないのと似て
なぜブレーキを踏むのか自分でも困惑することがありました

共働きの挫折

夫は理解が有る振りはしましたが
実家暮らしで家事は義理の母がしており
身の回りのことは出来ません

体力が無い私が家事と仕事で潰れるのは
時間の問題でした

話が違うと離婚も考えましたが
大きな式も上げましたし苦労した父が
悲しむ姿が浮かぶので、耐える道を選びました

仕事をやめ家庭に入ることは
強い葛藤がありました
学んだこと、希望、社会への思いなど
主婦になるには目と耳を閉ざし
一種の感覚遮断をするしか
自衛する方法を探せませんでした

自分を壊さずに生き延びる知恵ではありますが
キャラクターとして可愛げは無いと
自分の不器用さを振り返っています

自分を知ることの正解や力加減と
78になっても、まだ格闘しているのですから

プロフィール記事

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