凶徒よ、愛国者よ、排外主義者よ!──藤枝静男「凶徒津田三蔵」
参院選の投票日当時となり、日本人ファーストなるかけ声が耳を聾するまでになった。いうまでもなく日本の行政サービスや社会保障や国土や資源は私ども日本人、すなわち日本国籍を有し、現にここに暮らす国民を優先すべきであり、移住者なかんずく中短期的移住者はその恩恵にあずかるべきでないという意見である。背景にはオーバーツーリズムや富裕層による土地、建物の所有権取得、健康保険や生活保護、社会保障制度へのただのり、技能実習生をはじめとする労働問題や入管問題等々、わが国の安寧秩序が外国人におびやかされているとする意識がある。私はそれら差別的な見解を噴飯ものと退ける類の者だが、その寄って立つ風土と醸成する空気には深い深い興味がある。いや、興味などと、そのような行儀のいいものではない。私もそこにいて同じ空気を吸っている。逃れようにも逃れられない。

思えば、書物のなかにもそのようなものをくりかえしみだしてきた。
藤枝静男の「凶徒津田三蔵」は昭和36年というから1961年の「群像」2月号が掲載した小説で、作者にはめずらしい、実際の過去の出来事に材をとった史伝ないし歴史小説である。題材は明治24(1891)年5月11日の午過ぎ、滋賀県の大津町(現大津市)で起こった大津事件(大津町が琵琶湖南西であることから湖南事件の別称もある)、シベリア鉄道の極東地区起工式典出席のためのウラジオストクへの途中、日本へ立ち寄ったロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフの京都から琵琶湖への日帰り旅行の警護についた滋賀県警察部巡査の津田三蔵がサーベルで斬りかかり負傷させた要人暗殺未遂事件である。
藤枝は本作を、明治6(1873)年3月より筆を起こしていく。
舞台となる明治はわが国の近代のはじまりであり、ご一新の御旗の下、富国強兵、殖産興業を成し遂げんと、行政、立法、司法の三権はいうにおよばず、政治、社会は劇変、その動揺ぶりを作中の名もなき人物の弁を借りてまとめれば、田舎もんが先祖代々たよりにして来た殿様は一片の通達で新政府に召喚され、入れ替わりの他国者の役人がやってきて、やれ郵便だ、戸籍だ、警察だと、みたことも聞いたこともないことを言い募る時代──となろうか。事実この年、明治6年は太陽暦の導入があり、年貢は現物から金納による税となり、満20歳の男子を対象とする徴兵制の公布があった。
冒頭で勤務地の金沢分営から福井へ赴く津田もこのときすでに一揆を討伐する兵隊のひとりである。
津田家はもともと津藩の藩医をつとめる家柄で江戸下谷柳原(現在の台東区)に起居したが、父の刃傷沙汰で減封のうえ伊賀上野へ転居した。維新により帰参の望み絶たれた父長庵は陋巷に落魄し、兄寛一もまた穀潰しであった。
次男坊の三蔵は年嵩の身内のうだつのあがらなさに不快感をおぼえ、字のうまさや武道に秀でた面も、美質といえるものまで、親から引き継いだと思うとがまんならない。
彼は撃剣がうまかったが、つい気が散って無様に小手などをとられることがあると、突然異様な昂奮にかられて相手に打ちかかり、大上段から繰り返し繰り返し敵の面を殴りつけ、相手が殺気に怯えて道場の床にうずくまってしまうまで止められなかった。そして、そういう乱暴を働いた後、彼は(貴様等の腹の中はわかっとる。いかにも俺は親爺そっくりだろう、気違いの血筋じゃろう)と心に思った。後悔と孤独に胸を噛まれた。
濃密な血縁と、劇変する社会と制度、そこから振り落とされ鬱屈する心情、それらが一体というより三竦み四竦みとなり、奇妙な停滞と諦念を招き寄せる。みずからの眼と頭では光はつかめず、身を立てようにもどこにむかえばいいのか見当もつかない。かつての特権階級は力を奪われ、彼ら不平士族の不満も、農民のそれと同じように列島の津々浦々に蟠っていた。
明治10年の政変、いわゆる西南の役は征韓論をめぐる対立(明治6年の政変)の末、下野した西郷を、不平士族が担ぎ出したはてのわが国最後の内戦だが、その終わりをもって近代のはじまりとなす、歴史をその前後に区切る切断線でもある。
三蔵は西南の役に討伐隊の一員として熊本の大野山の戦闘に加わり、作中では賊軍の背に銃剣を突き立てもする。その前にも三蔵は越中砺波郡の小作人らの暴動の平定に兵隊として向かうさなか、いまや世に不要な士族の末路として小役人にすぎない上官らに押さえつけられている自分も彼らとちがわないと思うようになっていく。
先刻庫裡ですれちがった小作たちのずんぐりとした曲がった背中を彼は思い出した。(俺もおなじだ)と彼は考えた。
そう考えると同時に、しかし強い嫌悪の情が彼を襲った。それは一種生理的な不快感であった。あの小作たちと同等に、いっしょくたに、この厭な連中によって支配されるのは不当だという、半ば本能的な嫌悪であった。
三蔵は小作人と役人、双方に不快感をおぼえ、その感情の正体を「嫌悪」だと述べる。藤枝の小説にくりかえしあらわれる「嫌悪」である。この情動についてたとえば昭和45年の連作『欣求浄土』の一篇「厭離穢土」ではトーマン・マンの短篇「道化者」の基調となる言葉「das Ekel(嫌悪感)」を引き合いに以下のような説明を加えている。
私はこの単語(das Ekel/引用者註)を、そのころの自分をとりまいていた狭い外界、血族や旧友や教師や、それから漠然と不可解ではあるがしかしどうしても嫌悪の情以外の眼では見ることのできない社会全体に投げつける形容詞として、感傷的な同感をもって受けいれた。私は、そういう自分の傲慢を反省することもなく、寛容は自己への不忠実を証明する悪徳だと思いこんで恥じなかった。そしてまた一方でこの単語は、自分自身の薄弱な精神と肉体のやり切れなさに絶望する嘆息のためいきとして、より強く、しかしやはり感傷的に私を打っていた。
「厭離穢土」は『欣求浄土』の視点人物の「章」の死後、出てきた手記を「私」が語るという構造なので、上記文中の私は章を指している。章は藤枝が三人称で書くさいによく用いる名前で、三人称ではあるが、説話的な機能は一人称と大差はない。藤枝が私小説家とみなされるゆえんのひとつだが、「凶徒」は歴史上の出来事に材をとっており、津田三蔵も実在の人物である。実在してはいたが、庶民にすぎない三蔵の内面をあらわす史資料は多くはない。「凶徒」が小説であることはすでに述べたが、藤枝は材料不足を逆手に、三蔵の空白の内面を自身を何度も苛んだ「das Ekel」で満たしていく。それにより「凶徒」は、この小説をおさめる『藤枝静男著作集 第三巻』の解説で小川国夫氏が指摘されるようにまぎれもない私小説となった。
とはいえ本作は私性の特異点としての「空気頭」、遠心点としての「田紳有楽」、妻の病や家族や日々の暮らしを犀利な筆致で描いた短篇群とは性格を異にする。藤枝作品では例外的で、本作の背景を述べた『著作集』収載の短文「「凶徒津田三蔵」のこと」では、目論見が外れ、完成まで難渋したとのことだが、それでも本作に値打ちがあるのは三蔵の理非曲直が解ったというよりは津田三蔵という人物の「実存」に合点がいったからであろう、と解説の小川氏は推測する。すなわち作者の心のなかで三蔵が厚みをもった。藤枝さんにおいてはそのことは作者の肉感を登場人物に移し得たということだと盟友の小川氏は読み込むのである。
藤枝の肉感には欲望がついてくる。肉欲、性欲といかにおりあいをつけるかは藤枝の小説の主要なテーマのひとつであった。「凶徒」でも三蔵は友人の妻、弟の許嫁候補に色目をつかい、遊郭で童貞を捨て、女郎に恋情をおぼえるも剣突をくらい、酒を呷っては満たされない自尊心を埋め合わせる、明治の非モテ男だが、30前には妻を娶り、こどももうけている。家庭におさまりかけるが、そうは問屋が卸さなかったのは、ペリー来航のころに生まれ、13で明治維新を、16で廃藩置県を経験し、22のときの西南戦争では兵隊にとられた人生航路のなせる業か。成長期と国の変革期が重なり合う、そのことが凶行の傍証になるとはいわないが、人格形成にまるで影響がなかったとも思えない。
わかれ道は西南の役であった。従軍した三蔵は左手を銃撃で負傷し6日目で戦線を離れた。「凶徒」ではその直前に賊徒(叛乱軍)ふたりを銃剣で刺し殺したことになっている。三蔵はそのときの青年たちの「狂犬のような顔」や「銃剣を後ろから突き刺された四つん這いの生年の背中」を酒を飲むと思い出すことがあったというか、それはおそらく彼らが三蔵の陰画のようなものであったからではないか。士族の家の生まれでありながら次男のため家督を継げず、四民平等のかけ声のもと、徴兵制による3年の兵役についてみれば、戸主、官吏、上級学校修了者、代人料270円を納めた者は免役で、まわりの多くは貧困層。境遇がちかいのはむしろ下級不平士族からなる賊軍だが、彼らの神たる西郷が神威を発揮するまもなく叛乱は失速し、賊軍の将は鹿児島の城山で別府晋介の介錯の刃の露と消えた。これにより政体は幕藩体制から近代国家へ名実ともに移行するが、三蔵はむしろ疎外感を募らせていく。たとえば国権は民衆のものとの文字をみると、三蔵は違和感をおぼえるが、日本が他国に侮辱されると我慢ならない。先頭に立って戦わねばならないほどの激情に駆られるのだが、士族の出であることの特権意識は棄て切れない。
総合すれば、国家主義者となろうが、その国家なる概念にしても、幕末までは影もかたちもなった、いわば急ごしらえの観念であり、自由や民権と同列の抽象的な「言葉」にすぎないが、それよりは津や金沢や熊本といった名のある土地にまだしもちかい。藩閥政治ではつまはじきに合い、自由民権運動に乗りきれなかった三蔵にとって「国」なる観念は渡りに船であり、「das Ekel」が蚕食する内面を埋めるものとしての「日本」は不平士族にとっての西郷、いわば神のようなものだったのではないか。
生来生真面目な三蔵であるから、新聞にせよ、書物にせよ、国にまつわることなら情報収集に余念はなかった。学べば学ぶだけ、知識は増えたが、生かじりのそれらはまとまりに欠け、大津にほどちかい守山警察の三上村駐在着任時にはおおがかりな建白書の起草にとりかかったものの、古代から語り起こした文書は現在時にいたるほどにその筆は泥み、陽の目をみることはついになかった。
「彼は、自分の苦心して得た智識がいかにも貧相で狭く卑俗であり、事実がいかに複雑にからみ合い、自分がいかに筋を追って事柄を整理して行く能力に欠けているかを痛切に感じはじめた」
藤枝は上の一文を昭和36年に記した。そこから64年たち、みながソーシャルメディアを使いたおす時代を迎え、三蔵の生きた明治の世に較べれば知識や情報の収集は飛躍的に容易になったが、三蔵ほどに自覚と自省のある人間はその何倍もすくなくなった。わが身を客観的にみつめられるだけ三蔵は考える力があったともいえるのだが、それがゆえに(?)三蔵はしだいに離人症的な狂気のようなものにとらわれていく。
明治23年10月14日、三蔵は御上神社大祭に祭事に娘とともに訪れ、天狗面をかぶった男の所作にどよめく群衆に不意に不快感をおぼえ、「わしが退治してやる」と呟き、官服のまま拝殿にあがるとサーベルを抜き、所作を真似ながら天狗面の男を追いまわした。サーベルは真剣であったという。
『大菩薩峠』の机竜之助を彷彿する幽鬼さながらのふるまいである。藤枝はこのときの三蔵の心情にふれないが、およそ半年後の明治24年5月11日、来日中のロシア皇太子ニコライの警護にあたった三蔵は「今まで遠いところにあって、しかも執念深く彼をひきつけ悩ましていたものが、今は非常に近く来て」おり、「行動しさえすれば(中略)不確実な妄想のようなものから解放される。亡霊のような政治からも、西郷からも、自分からも」と心中で独白するにいたるのである。
旧体制と新政に板挟みになった三蔵にとってすがるものはその上位概念としての日本のほかなく、それがもし神にも似たものであれば、つねにすでに無謬でなければならない。他方で彼が警護するニコライは樺太千島の交換条約(1875年)で自国有利の立場を崩さず、シベリア鉄道敷設で東アジアに脅威をもたらしている。おまけに神戸に上陸し京都、滋賀で物見遊山に興じるばかりで東京の天皇へのあいさつもない、不敬である──そう考える三蔵の前を人力車に乗ったニコライが悠揚と通りすぎる。三蔵は敬礼した右手を下ろすと、その手でサーベルをずらりと抜き、無言でふりかぶるとニコライの頭を、後ろから前へ、斜めに二度、帽子の上から斬り下げた、一度目は日本の外敵を取り除くために、二度目は三蔵の身内に巣喰う「das Ekel」を葬り去るかのように。
そのとき三蔵のうちにあったのは怒りや憎悪よりも乾きと焦燥であったろう。なんならニコライすら関係ない。他者のいない場所に三蔵はたどりついたが、考えてみれば、ずいぶん前から彼のまわりには誰もいなかった。病身の母も放蕩者の兄も妻も子も親戚もただひたすらに不快で存在感に乏しかった。あらゆるものから遠ざかる三蔵は山上的なローンウルフ型の凶徒ではあっても排外主義者ではなかった。そこには外がないのだから。西郷でも幕藩政府でも、ロシアであっても、外とみえたものは三蔵の疎外感の反照にすぎないのであるから。
ニコライは頭部から鮮血を滴らせ、なにかを叫びながら俥を飛び降り、逃げようとする。追いすがる三蔵の後頭部をニコライに同道したギリシャ王国の王子ゲオルギオスが土産物の竹の鞭で打った。ひるんだ三蔵をふたりの車夫がとりおさえた。ニコライは傷を負ったものの命に別状はなく、列強の要人の小国内での暗殺という戦端を開きかねない事態はひとまず回避できたかにみえたが、その後始末はむろん簡単ではなかった。作者はその顛末を「愛国者たち」と題した小説にまとめている。愛国者とは三蔵のことか、彼を葬ろうと画策する人々か。また愛国とは保守を指すのか、排外主義か大衆迎合か。次回はそのことについて述べてみたい。(了)
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