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矢作川流域経済とは何か――下流の西尾から、源流に感謝する経済へ

この海は、どこから来るんだろう

2010年に愛知県西尾市幡豆町に引っ越してきてから、もう15年以上になる。

朝、窓を開けると潮の匂いがする。夕方には三河湾に沈む夕日が空を赤く染める。東京から来た自分が、いつのまにか「海の人」になっていた。

無人島があるので瀬戸内海っぽい感じもする
夕日が沈む感じが、カリフォルニアみたいじゃね?と。
ほかにもガマフォルニア(蒲郡)とか、シマフォルニア(志摩)もある。

2016年ごろ、仲間うちで「ハズフォルニア」という名前をつけた。幡豆の海辺がどこかカリフォルニアに似ている、という軽口だったけれど、本当の動機は別にあった。西尾市への合併以来、「幡豆」という地名が少しずつ地図の上で薄れていく感覚があって、自分たちの風景を自分たちの言葉で呼び直したかったのだと思う。その頃から、海辺には少しずつ面白い店が増えた。地元食材を使ったピザ屋、和食に欠かせない糀(こうじ)をつくる糀店、その糀をソースに使ったハンバーガー屋、地元の果樹で丁寧につくったジェラート屋、の店——どれも大資本ではなく、「ここでこう暮らしたい」と思った個人が自分の手で始めた場所だった。

僕はそういう西尾が好きだ。だけども、自分自身も歳をとり、こどもたちも大きくなるにあたり、ただ消費者であるだけではなく、この営みが循環されていく未来を考えなきゃいけないと思うようになってきた。

「あさりがすっかり採れなくなった」「山や川のミネラルが海に注がれなくなった」そんな漁師さんの嘆きも聞くし、10年前は隣からもらえた「とり貝」も今では大変な高級品になってきた。海を見るたびに妙な引っかかりを感じるようになった。

この水は、いったいどこから来るんだろう。

もちろん海は海だ。でも、僕らが飲む水も、西尾の抹茶も、三河湾の魚も、安城の米も、全部どこかから流れてきた水とつながっている。そしてその水には、源がある。西尾は矢作川の下流にある。つまりこの町は、ずっと「水をもらう側」だったのだ。

水不足のニュースを聞いて、背景が迫ってきた

2025年から2026年にかけて、愛知県東部で深刻な渇水が起きた。豊川水系では節水制限が行われ、「水が足りない」という言葉が日常の中に混ざり込んできた。

日本は「水の国」だと思っていた。蛇口をひねれば水が出て、コンビニには飲み物が並んでいる。その「当たり前」を疑ったことがなかった。渇水のニュースは、その背景が突然こちら側へ押し寄せてくるような感覚だった。

便利になるほど、背景は見えなくなる。食べ物がどこから来たのか、電気がどこで作られているのか、水がどこから流れてきたのか——そういうことを考えずに暮らせるのが「都市の豊かさ」だとされてきた。でも本当にそれでいいのか、という問いが、渇水のニュースをきっかけにじわじわと浮かび上がってきた。

矢作川という、見えないインフラ

矢作川は、長野県根羽村を源流とし、愛知県を横断しながら三河湾へ注ぐ一級河川だ。幹川流路延長118km、流域面積1830㎢、流域人口は約74万人。数字で言えばそうなるが、数字では伝わらないものがある。

長野県から愛知県への水の道(国土交通省サイトから引用)

トヨタを中心とした工業地帯、安城の農業、西尾の抹茶、三河湾の漁業——西三河という地域の産業は、ほとんど全部この水系と地続きになっている。それは「環境」とか「自然」という話ではなく、社会インフラの話だ。水道管や道路と同じように、矢作川はこの地域の暮らしを支えている。ただ、水道管と違うのは、誰もそれを意識しないということだ。

都市で育った人間はとくにそうで、僕自身もそうだった。蛇口をひねれば水が出る。それ以上のことを考えたことがなかった。でもその「蛇口の向こう側」には、森があり、川があり、そこで暮らしている人たちがいる。

根羽村で、身体が先に理解した

長野県根羽村。人口約800人、面積の94%が森林。矢作川の源流の村だ。

実際に行ってみると、空気の質が違った。湿度の話ではない。山の空気には、水がまだ水になりきっていないような、何か途中の感じがある。海辺の湿気とは別物だった。海の湿気は、すでに旅を終えたものの重さがある。山の湿気は、これから何かになろうとしている途中のような軽さがある。

根羽村源流の森(nebaneより引用)

そこで初めて、頭ではなく身体で理解した。自分たちは、ここから流れてきた水で暮らしているのだと。

根羽村では「nebane」という流域プロジェクトが進んでいる。安城市や企業とも連携しながら、植樹や環境学習を通じて、森と下流域をつなぎ直す試みだ。ただ、現地で話を聞いていると、それが単なる環境活動ではないことがわかってくる。「自分たちが使っている水がどこから来ているか」を、都市側の人間が身体で知るための場所として機能していた。知識として知るのと、現地に立つのとでは、やはり違う。

「水を使う者は、自ら水をつくれ」

流域経済について調べているうちに、一つの言葉に行き当たった。

「水を使う者は、自ら水をつくれ」

明治用水に関わった人たちの思想だ。

現代社会はその逆を走っている。都市は使うことには長けているが、その背景をつくる側への想像力は薄い。水を使い、電気を使い、物流を使い、自然を使う。でも、使われる側が何をしているかは見えない。見えないように設計されている、と言ってもいいかもしれない。

大正時代、明治用水の関係者たちは根羽村に427haの水源涵養林を購入し、森を守り始めた。下流側が、上流を支えていたのだ。それは善意や慈善ではなく、「自分たちの暮らしは上流によって支えられている」という認識から来ていた。支援ではなく、返礼だ。

明治用水がなかったら西三河の農業は成り立たない

これを現代版としてもう一度できないか、というのが今回の構想の出発点にある。

森は、海のインフラだった

西尾に住んでいると、どうしても視線が海へ向く。でも最近、海を見ながら、その向こうではなく川の上流のことを考えるようになった。

山に降った雨が森を通り、栄養を含みながら川へ入り、河口へ届いて三河湾を育てる。一色のうなぎも、海苔も、三河湾の魚も、海だけで成立しているわけではない。山と川があって初めて成立している。

「海の町」に住んでいると思っていたが、正確には「流域の河口」に住んでいたのだ。その言い換えは、単なる言葉遊びではない。自分がどこに立っているかの認識が変わると、見えてくる責任も変わる。

「地産地消」から「流域産流域消」へ

「地産地消」という言葉は大事だと思っている。でも、流域という視点で見ると、もう少し大きな循環が見えてくる。

根羽村の森、足助の木工、安城・西尾の食と農業、三河湾の漁業——これらはひとつの水系でつながっている。だとすれば必要なのは「地産地消」だけではなく、「流域産流域消」という発想ではないか。上流で生まれた価値を下流で消費し、その利益が再び上流へ戻っていく。物流の話ではなく、関係性の話だ。

流域という捉え方をすると、下流のまちは上流の森と人に感謝を取り戻せるとおもう。

下流から始める、という意味

「地方創生」という言葉を聞くたびに、どこかしっくりこないものがあった。その言葉には、都市側が地方を「助ける」という非対称な構造がにじんでいる。

でも、流域という視点で考えると、構図が逆になる。下流の西尾は、上流の根羽村に支えられていた。水をもらい、森の恩恵を受け、川の栄養で海が育っていた。「創生する側」ではなく、「支えられていた側」だったのだ。

その自覚から始まる関係性の組み直し——それが、僕の考える流域経済の出発点だ。

矢作川の水は、森を通り、人を通り、田畑を通り、工場を通り、店を通って海へ出ていく。下流から上流へ、何かを返す番が来ているのだと思う。


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