『Mine or Yours』宇多田ヒカル──わかり合えなさの中で、そっと肯定されること
はじめに──“わかり合えなさ”に、ふと救われることがある
宇多田ヒカルの『Mine or Yours』を聴いたとき、不思議と心が落ち着くような、でも少し胸が締めつけられるような気持ちになった。
ゆったりと穏やかなメロディに、ふとした日常の気づきや余韻を残す抽象的な歌詞。そこに斬新なアングルのMVが加わって、全体として一つの作品世界を静かに、でも強く形づくっている。
恋愛を描いているようで、それだけではない。
私には、人と人が“わかり合えないまま、それでも共に生きていく”という姿が浮かんできた。
“違っていても、共にある”という前提
「君はコーヒー 僕は緑茶、いつもの」
このフレーズが繰り返されるたび、なんでもない日常のようでいて、深く沁みてくる。
違う好み。違う選択。
でも、それが当たり前になっていくことで育まれる関係性。
繰り返される習慣や、小さな違いを認め合うことで成り立つ静かな肯定。
この歌には、そんなやさしさが滲んでいるように感じる。
“完全にわかり合える”という幻想の外で
「ずっと一緒にいたいけれど 毎日一緒はしんどいかも」
この一節に、どこかホッとした。
恋人や夫婦、親子、友人──
どんな関係も「距離感の調整」が大事で、
「一緒にいたい」という気持ちと「一人でいたい」という感情は、
どちらも否定できないものだと思う。
「私はこう感じるけれど、あなたはどうだろう?」
そんなふうに、押しつけずに相手の自由も尊重するような言葉の使い方が、この曲には随所にある。
人と人が違うまま、寄り添っていこうとする態度──
今の時代に、こういう“やわらかい共存”の感覚は、
ますます大切になってきているように思う。
MVの視点──下から見上げるカメラと再誕のモチーフ
MVでは、ずっと“下から見上げる”視点が続いている。
このアングルには、単なる映像美以上の意味が込められている気がした。
有名人として、経済的成功者として、
ときに“見られる側”としての立場を自覚しながら、
それでも、ただの一人の人間として在りたい──
そんな葛藤を宇多田ヒカル自身の実際の行動や歌詞などから感じていた。
印象的だったのは、狭くなっていく廊下や、
洗濯機に身体を入れていく場面。
「通れなくなる廊下」は産道のようにも見えるし、
「洗濯機」は、古い価値観を洗い流し、新しい自分に“選択”し直すような
再誕のモチーフにも思えた。
あのMVには、単なるストーリーではない、
視点や認知を変える“体験”のような仕掛けがあるのかもしれない。
わかり合えなさを、どう受けとめるか
この曲のテーマは、恋愛にとどまらない、と感じている。
親子や友人、社会と個人、国と国──
あらゆる人間関係の中にある、
「わかり合えなさ」と「それでも関係を続けること」の両立。
いま世界中で分断が広がる中で、
私たちはあらためて、この問いに向き合わされているのかもしれない。
「自由に慣れれば慣れるほど/不自由だって」
この一節に、自由・制度・他者との関係性──
現代社会の複雑な構造が、そっと織り込まれているような気がした。
インターネットによって、私たちは自由を手にしたはずなのに、
実は、昔よりも人と人との距離は遠くなっているのかもしれない……。
おわりに──“ほどほど”を選び取る勇気
『Mine or Yours』は、こう語りかけているようにも聞こえた。
「すべてをわかり合うことなんて、きっと無理だけど──
それでも、"ほどほど"でなら一緒にやっていけるかもしれない。」
完璧じゃなくていい。
わかり合えなくて当たり前。
それでも今日も一緒にいたい、と思える関係を大切にしたい。
そう思えるだけで、少し救われるような気がするのです。
