映画を吸う夫、映画に登る妻
昔から、映画は登るタイプである。
どんな景色なのか、ちゃんと楽しめるのか、遭難しないか。事前にある程度(場合によってはオチまで)確認し、万全の体制で挑む。そして、こちらの気持ちや体力を整えながら、一歩ずつしっかり向き合うのだ。正直、体力がなければ、映画は観られない。
映画館での鑑賞となると、より過酷だ。
からだは刺激を受け止めきれず、くまは濃くなり、呼吸は浅くなる。観終わったあとは、7年分ほど老けるのが常である。
過酷な環境と引き換えにでも堪能したい景色が、そこにあるか
これが、映画館まで足を運ぶかどうかのジャッジポイントだ。
結果として、子どもが生まれてから8年、自分のために新作映画を観ることはなくなった。シンプルに体力も落ちてきたのだと思う。
さようなら、文化的な登山。さようなら、価値観や情緒を刺激してくれた、美しい風景たち——
そんな日々に、突然の『国宝』である。
この映画、ちょっと様子がおかしい。絶景に心臓を射抜かれた知人が続出し、世間の賑わいがとんでもないことになっている。
どれだけ美しい景色が観られるのだろう。気になる。人々を熱狂させる壮絶な景色ならば、全身で感じてみたい。でも、いったいいつ? 3人いる子どもたちはどうする?
そんなある日、夫が「来週『国宝』観に行くけど、一緒に行くならチケット取るよ」と声をかけてきた。
しかも、平日にゆっくり観るつもりで、すでに有給も取得済みという。
夫はエスパーなのかと喜ぶと同時に、悶々としてしまう。仕事を休んでまで、行くべきなのだろうか。しかも3時間。これはハイキングではなく、富士登山の誘いである。体力が心配だ。でも、気になるなぁ……
「子育ての合間に文化的な時間を確保するの、大切だと思うけどね」
「人を熱狂させる要素があるものに触れるって、仕事する上でも大切じゃない?」
動かない天秤とにらめっこしているわたしの前で、夫が天秤の皿を揺らす。
そうだよねぇ、わかってるんだけど……と口ごもると、夫はさらにたたみかけてくる。
「映画観る前に、近くの蕎麦懐石でちびちびやろうかな。俺誕生日だし」
そうなのだ。予定されているその日は、夫の誕生日の前日だった。『国宝』とともに夫の誕生日を祝うのであれば、むしろ3時間なんて短いかもしれない。
ただ横に座って映画を観るだけでお祝いになるのかは議論の余地があるが、ここはひとつ、のってみようではないか。
2人で映画を観るなんて、8年ぶりだ。誕生日に登山デート、もとい、映画デート。うん、悪くない。
こうしてわたしは3時間の映画に身を投じる覚悟を決め、有給を申請した。
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車に揺られること40分。蕎麦懐石を堪能したあと、いざ! と、富士登山に向かう。
今回は、内容もオチもあえて調べなかった。あまりにまわりの評価が高かったので、流れに身を任せてみようと思ったのだ。
歌舞伎、吉沢亮。その程度の装備と情報量で、そこそこ過酷な山を目指す。
プレミアムシートという名の酸素ボンベを握りしめていたにも関わらず、映画開始10分で、わたしは瀕死状態に追い込まれた。
任侠の家に生まれた主人公の身に起きる痛々しいシーン。お腹が痛い子のそばにいると、自分も痛くなってきてしまう共感性の高さが、すっかり裏目に出てしまった。やっぱり調べておけばよかった。流血があるだなんて……(苦手)。
傷口をぐっとタオルでしばり、頂上をにらむ。
……進むぞ。
あそこでしか味わえない景色を見るために。
美しさ、憎らしさ、切なさ、そして凄み。一歩ずつ岩山を登りながら、いちいち呼吸がとまる。……あの、この山って、生きて帰れる山でしたっけ?
血も酸素も足りなかった。
思わず夫に助けを求めたくなったが、重厚なプレミアムシートに阻まれ、顔はおろか腕すら見えない。
夫ー、やっほ〜! と心の中で叫んでも、夫はうんともすんとも返さない。あまりにも過酷、かつ孤独な誕生日デートである。
「はー、見応えあったわ。まだ少し時間あるから、コーヒーでも飲んでいこうよ」
3時間後、軽やかに下山した夫が、映画館横のカフェを指差した。
コーヒーだと? 冗談じゃない。
こちらは今、壮絶な登山から命からがら生還したばかりなのだ。まず、血をくれ。そしてじゅうぶんな酸素をくれ。話はそれからだ。
ガチガチのまま首をふり、早足で帰ろうとするわたしをみて、夫は「あいかわらずだねぇ」と笑った。
そういえば、夫と付き合う前の初デートでも、わたしは瀕死状態に追い込まれていた。ひょんなことから、六本木の映画館で、『モテキ』を観ることになったのだ。ミニシアター系や古い邦画を好んでいたわたしにとって、無防備に登った『モテキ』は、遭難の連続だった(映画はおもしろかった)。
前から2列目という状況も悪さをしていたように思う。映画館苦手勢にとっては、捨て身の配陣である。
鑑賞後、すっかり憔悴したわたしを見て、夫が動揺したのも無理はない。デートとしては、間違いなく失敗だっただろう。
しかし、運命とは不思議なもので、未来は成功の先だけに成り立つわけではない。その夜、彼とわたしは恋人となり、運命共同体の一歩目を歩み出した。
彼が住む代々木の8畳の映画館で、わたしたちは度々映画を観るようになった。冷蔵庫を開けてもプレモルとミニトマトしか入っていないのに、彼の部屋にはいつも映画があふれていた。
夫は、映画に登らない。登山靴も、装備も、まったく身につけない。呼吸するように、自然に、映画を眺める。
深夜に映画を観はじめたかと思えば、画面をつけたまま寝る夫。彼の鑑賞スタイルは、きっちり向き合うことがすべてだった自分にとって衝撃的で、ひどく自由で、「不良的行為」に思えた。
「映画って、そんなふうに観ていいの?」と、とがめるように苦言を呈すると、夫は不思議そうに眉を寄せる。
「なんで? 映画なんて、ただのエンタメだよ。気負いすぎ」
そんなわけが、あるものか。
彼の主張に対して、はじめはずいぶん抵抗があった。映画の芸術性を尊重しない軽薄さに、嫌悪の感情をいただいたことすらある。
ただ、彼の横で映画を観てみると、なるほど確かに気が楽なのだ。無防備で観られるB級映画のありがたさも、あまり触れてこなかったハリウッド映画のエンタメ力の高さも、疲れきった日に少女漫画の実写版のちょうどいいことも、すべてあの8畳の狭い映画館で知った。
映画を摂取する元気がない日にも、彼は状況に応じて映画を処方してくれる。夫は、わたしに軽装ハイキング映画の楽しみを教えてくれたのである。
「どうだった? 映画」
帰り道、相変わらず息を止めながらカチンコチンを解除できないわたしに、夫が『国宝』の感想を求めてきた。
映画を批評するとき、述べる者もまた、映画に批評されている。こちらの人間性や感動、心の豊かさが試されるからだ。
「……痛かった。最初のところ。もう、あれでからだがギュウっとなっちゃったから、作品に挑むにあたってコンディションが悪すぎた」
浅く、稚拙。本質から実にぶれている感想。
しかし、どんな感想でも、夫になら嘘偽りなく話せる。
「映画のストライクゾーン狭すぎでしょ」と笑いながら、夫も続く。
あのシーンよかったよね。あそこであの子があの挙動をしたのはどうしてだろう? あぁなるほど、そういう解釈なら確かに腑に落ちるね——
話しているうちに、稚拙なパーツが少しずつ輪郭をかたどり、じんわりと本質を見せ始める。この景色がまた、いい。鑑賞後の感想を言い合う時間も、ある種の山登りなのかもしれない。
彼の感想を聞きながら、わたしは初デートの帰り道をぼんやり思い出していた。
登山の疲れを青山の風で回復させながら、長澤まさみの尋常でないかわいさや、吉野家の牛丼を大口で喰らう麻生久美子の天才的なカットについて話した、あの懐かしい帰り道を。
互いの感想を出し尽くしたあと、「付き合いたてだと、こんな感想は言い合えないかもな」と、夫がつぶやいた。彼も、遠いかすかな記憶の中から、初デートの温かさを引っ張り出していたのかもしれない。
連続する赤信号で、車はたびたび停車する。少し道が混んでいるが、保育園のお迎え時間には間に合うだろう。
「そういえば、オマージュかなと思ったシーンがあるんだけど、今日の夜、そっちの方観てみる? 」
「あー、結構です」
「回答すんの早っ」
しばらく映画はいい。特別な3時間なら許容できるが、そうでない2時間は、やはりそれなりの覚悟を持って挑まなければならない。映画館であろうと、家であろうと、それは変わらないのである。
夫は今夜、もう一本映画を観るのだろうか。数多の呼吸が静まる深夜に、たった一人で。吸うように、なんでもないことのように、無防備に。
そんな夫の呼吸を遠くに感じながら、わたしは眠りにつくのだろう。
「あいかわらずだねえ……」
夫はぼやきながら、信号が青に変わるのを確認し、静かにアクセルを踏む。
いやいや、あなたの方こそ、あいかわらずでしょうよ。3時間の超大作の後に2時間の映画って、どういうことよ。
窓の外を風が通りすぎていく。夫はなにも話さず、ハンドルを握りしめて前を見ている。
肺にはやわらかな空気が広がり、わたしはすっかり血や酸素を取り戻していた。深く息を吸い、ふぅっとすべてをはきだす。
勢いのついた空気が、夫の頬をそっとなでる。車は再び静かに走り出していた。わたしたちの日常に向かって、ゆっくりと、まっすぐに。
【一言感想】
『国宝』、田中泯さんがとてもよかった……
個人的には主役の二人より完全に田中泯に目と心を奪われました。
3時間だとトイレが心配だと思いますが、わたし、心配しすぎて水分を断ちすぎて干からびました。最低限の水分はとってから臨んでくださいね。
