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「わたし以外のわたし」が多すぎる件

名前を間違えられるのは、もはや日常だ。

病院で。封筒の宛名で。教室の点呼で。面接で。
「わたしのような、似ている誰か」として呼ばれても、にっこり笑って手をあげる。そんな人生を、長いこと送ってきた。


名前はすべてひらがなだから、本来「読みまちがい」とは縁遠いはずなのに、少しだけ聞きなれない音合わせであるところがいけない。

仮に、わたしの名前を「ぴかる」としよう。
「ひかる」ならば耳心地もいいだろうに、謎に「ぴ」という難解な文脈がぶち込まれているせいで、初対面の相手の思考に、一瞬負荷をかけてしまうのだ。

結果、「ぴかえる」と天使みを帯びた名前に昇格されたり、「ひからん」「ひかり」と文法変化をとげたりして、妙にバラエティ豊かな呼ばれ方をされる。もはや、わたしが誰なのか、わたし自身もわからない。

読解がやさしいひらがな×聞きなじまない音は、間違いを誘発しやすい。わたしの名前は、読み間違えの温床なのだ。


旧姓もめずらしい方だったから、名字でつまずかれることも多かった。
名字のトラップを突破してきた人たちも、「なんだ名前はひらがなか、かんたんカンタン」と気を抜いた瞬間、着地がズレる。

本来、不憫なのは、間違えられるわたしの方だろう。しかし世間では、人の名前を間違えることが失礼にあたるらしい。相手の不注意というよりも、トラップだらけの名前が悪さをしていることを思うと、相手が不憫でたまらない。不憫しか生まない名前そのものが、不憫である。

もう、なんでもいい。
呼びやすいように呼んでほしい。
「ぴかえるさん」でも「ぴか子さん」でも「ぴかちゅう」でもいい。あなたが思ったわたしが、わたしの名前だ。

そもそも発音もしづらくて、自分で噛んでしまったりする。呼んでもらえるだけで、ありがたい話ではないか。


結婚をして、平凡な名字に変わってからは、名前の総合的な難易度が下がった。認知負荷も下がったのだろう、ずいぶんと本来の名前で呼ばれることが増えたが、それでもたまに「わたし以外のわたし」と出会う機会がある。

ポストチェックをする夫から「これは新しいパターンかもしれない」と笑いながら渡される封筒の宛名を見ると、名前の大喜利のようでちょっと愉快な気持ちになる。


親に名前の由来を聞くと、「かぐわしく、うつくしく」なのだという。明らかに名前負けしている点も不憫といえば不憫だが、それでも両親が愛情を込めてつけてくれたのだ、ありがたく一生をともにしようと思う。

残りの人生で、まだ見ぬ「わたし以外のわたし」に、あと何回出会えるだろうか。かなり経験値が上がっているわたしだ、ちょっとやそっとの間違いはもうお腹いっぱいである。

願わくば、「そんな誤解ある?!」と腰を抜かすような奇抜さで、私の名前を粉砕しにきてほしい。こちらの準備は、30年以上前からできているのだ、いつでもこい、どんとこい。


#フビワングランプリ



不憫男子ことアルロンさんの企画に参加しています。


娘の名付けについても書いているので、おかわりにどうぞ。



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