エッセイ「映画における関係主義」

ふたつ下に掲載した『ボーイ・ミーツ・ガール』の論考から11年が経ち、若い私は当時そこで何をやろうとしていたのかと改めて考えてみる。そうすると、タイトルに掲げた「映画における関係主義」という問いに収斂されるように思われる。関係主義とは、廣松渉などが集中的に述べた(あるいは構造主義などにその発想がある)、A、B、といった「項」よりも先に「関係」があるという発想だ。私はこの事態に強いこだわりを(今でも)持っている。例えば千葉雅也の『動きすぎてはいけない』にも第5章でこの話は出てくるが、そのように思想としてもその部分に強く反応してしまうきらいはあるし、何よりもそれを具体的な映画作品が教えてくれた。カラックスにハマったのち私は80-90年代ゴダールに大きく傾倒することになるのだが、例えば『フォーエヴァー・モーツァルト』の1シーンを細かくディスクリプションしてみたい(以下、未見の方は飛ばしていただいても構わない)

ヴィッキー(以下父)、シルヴィー(以下母)、カミーユ(以下娘)、その従兄ジェローム(以下兄)、メイドのジャミラ(以下メイド)が食卓を囲んで議論している。画面は「引き」からの固定ショット。話の大枠は、戯曲『戯れに恋はすまじ』を戦下のサラエヴォに上演しに行くと言い張る娘に、母が反論するというものだ。まず、画面手前に座っていた父が立ち上がり、画面の更にこちら側へとタバコの箱を取りに来る。タバコを取ると時を同じくして、画面右端にいたメイドが、卓上の食器を片付けようと静かに席をたつ。2人が動き出してしばらくすると、画面奥の兄も立ち上がり、大げさな身振り手振りで口論する。兄の言葉を受けて、母親も勢いよく立ち上がり、反論する。最後に娘も立ち上がると、画面上に映っているすべての人物が、何らかの動作を伴いながら、円卓の周りをぐるぐると周る格好になる。交わされる言葉の隙間を縫うようにして、レフトスピーカーから数秒間轟音が響き渡る。そして一旦画面からハけたメイドが画面右手前から再び現れると、画面奥にいた兄が左に一歩移動する(すんでの所で、画面上における二人は重ならない)。メイドが再び画面右にハけると、その分だけ兄も右へと移動する。そうした動きはさながら、フットボールにおいて選手がフリーになったスペースを次々に埋めていくかのようだ……。


このような事態は80-90年代(だけではないが)ゴダールのどの作品を見ても見つけることができる。これはいったいなんなのか。『フォーエヴァー・モーツァルト』はマネの『フォリー・ベルジュールのバー』を映画化したものではないか? という思いつきを得たことがあったが、その思いつきは未だ思いつきのままに留まっている。

昨年、リュミエール兄弟の「橋の広場」という映画にいたく感銘を受け、「結局こういうことだよね!」と思い至った。カラックスも、ゴダールも、というか彼らにおいて私が言いたいことのすべてがここにある。それは一言で言えば「Moving Picture」つまり構図そのものが流動的に動くという、言ってみれば映画の当たり前すぎる原理であった。だが私はいつまでもこのことにこだわって映画を見ている気がする。

上記のようなことを的確に言語化したものとして、廣瀬純が樋口泰人との対談で語った「サーフィンの時代」という事柄がある。

運動をどう考えるか、人間と運動との関わり合いの問題です。運動を巡って時代を3つに分けるとすれば、最初は神の時代、次が人間の時代で、その次にサーフィンの時代がくるってことになる。神の時代っていうのは、神が運動の源泉、運動のモーター、当時の言葉で言えば「第一動者」だと考えられていた時代のことです。一般的な歴史観で言えば、その後、フランス革命を始めとした市民革命が起きて、地上における神の代理人としての王の頭が切断され、人間は初めて神じゃなくて自分の頭で考えるようになり、自分が運動の源泉、運動のモーターになった。ドゥルーズが挙げている例で言えば、徒競争とか砲丸投げといった形態のスポーツが支配する時代です。ところが、さらにその後、だいたい19世紀から20世紀への移行期の頃だと思うけど、もはや人間が運動のモーターではなくなって、運動はすでにそこにあって人間はその運動に乗るっていう時代が始まった。アルチュール・ランボーなんかは、ちょっと先駆的に1871年のパリ・コミューンの頃に、「私が考えるっていうのは間違いだ、非人称的な何かが私において考えると言わなければならない」なんて書いています。要するに、モーターなき思考の波動に貫かれる場としての「私」であり、そういう「私」にしかもはや詩を書く資格はないってことです。いずれにせよ、映画が開発される時期の話です。ただし、ここで重要なのは、運動が常にすでに人間より先に存在しているといっても、その運動を起こしているカミナリ様のような誰かがどこかにいるということではもはやないっていうところです。運動が運動を生みだすというような、運動の無際限な相互作用とその海がただひたすら広がっているだけで、宇宙のどこを探してもそうした運動の源泉、モーターはもはやどこにもない。それがサーフィンの時代です。ーー樋口泰人『映画は爆音でささやく』より


「まさにそういうことだ!」と後追いの特権として膝を打つことしか私にはできない。こういう考えが自分のオブセッションであることに気がつかずに、ただその「何か」を掴み取ろうとして10年前はもがいていた。今はこのように、人の力を借りつつも、もう少し冷静に言語化できるようになった。さてこれから私はどこへ進むだろうか。来るべき波に飲まれて私自身変転を続けていかなければなるまい。

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