クリント・イーストウッド『陪審員2番』を観た

クリント・イーストウッド監督の遺作と言われながら、日本で劇場公開がなくU-NEXTのみでの配信となった『陪審員2番』をついに観た。よく「手に汗握る」と言うが、この映画を観ている間じゅう全身から発汗が止まらなかった。キャッチコピーにある「究極の人間ドラマ」というのは確かにそうだと思う。

だがしかし、これは「心理劇」なのだろうか? 映画は主人公ケンプの内面に踏み込んでいるだろうか? 確かに我々観客は、映画を観ながらケンプとともに徐々に追い込まれていく感覚を味わう。だがベタな心理映画がやりそうな描き方、例えばケンプの眠れぬ夜や悪夢に執拗にスポットを当てるような行為は、イーストウッドにあっては徹底して禁欲されている。では、それはなぜか。イーストウッドはケンプの内面には無関心なのか。

おそらくそうではあるまい。むしろここでは、内面に「踏み込みすぎないことによってより一層深く踏み込む」という、ある倒錯した手法が用いられているのではないか。

例えば「I’m fine」(大丈夫だよ)という発話が、その発され方によってはしばしば「大丈夫じゃなさ」をより強く示すのと似たように、我々は、動揺はしつつもあくまで気丈な面持ちで法廷に出廷しつづけるケンプを見ることによって、かえって彼の眠れぬ夜だったりを強く意識してしまうのだ。表層批評の立場を採る者であっても、ケンプに睡眠時間が(=画面外の時間が)存在しない、とまでは言わないだろう。私も基本的には画面に映るものを重視し、安易な「お気持ち」論などはやりたくない立場だが、この映画ーーひいてはイーストウッド監督の全作ーーから来る独特の重苦しさは、執拗に描くことよりもむしろ描きすぎないことに起因するのではないかと思った。確かに『チェンジリング』の絞首刑の場面などに彼一流の執拗さを感じることはあるが、イーストウッドの執拗さは、凡庸な監督の描く執拗さとはどこか力点がズレているように感じられる。彼の作品の半分も観れていない私に監督論をやる資格はないが、彼の持っている「重み」と「軽み」の奇妙な逆転関係に注目すると、イーストウッド独特の世界観がより明瞭に見えてくるのではないかと思った。

この作品を見終えて、とりあえず入浴し、フローベールの『ブヴァールとペキュシェ』や、ベケットの『ワット』のような「カラッとした」作品を無性に欲している現在の自分がいる。やはり重苦しくズシーンと来る作品であったことは否定できない。徐々に日常へと戻っていくことにしよう。

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