【映画エッセイ】カウリスマキ監督の「パイナップルズーム」について

アキ・カウリスマキ監督のファンであれば誰でも知っていることだが、彼は人物の顔にヌーッと寄るズームを非常に多用する。どの作品でもここぞというところで数回出てくる。『ル・アーヴルの靴磨き』ではこのズームが、警部の持ってきたパイナップルに対しても行われていたので、驚いた私はそれ以来この手法を「パイナップルズーム」と勝手に呼んでいる。

ところで、これはクリシェ(紋切型)であろうか。カウリスマキの作品には、たしかに観るものを(観る前から)安心させるところがあり、ベタベタの演出や、まるで映画的技法を覚えての人が「これやってみました」と言わんばかりの手法の剥き出し性もある。私はそこを面白いと思う人間なのだが、批評家たちがあまりカウリスマキについて長く論じたがらないのは、ひょっとしてこれを保守と捉えているからなのか、そんな疑念もある。

例えば「前衛」の親玉のような存在、ストローブ=ユイレ夫妻は、「クリシェ」に関わるすべての作品を「ポルノ」あるいは「コマーシャル・フィルム」と呼び攻撃する(以上、廣瀬純「石が叫ぶ」(『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』)より)。同じ廣瀬純は、新刊『監督のクセから読み解く名作映画解剖図鑑』の中で、ウェス・アンダーソンのクセである「平面性」についてこう述べる。

「しかしそれは、ウェス世界とは異質な、何か差異のようなものを持ち込む可能性のあった存在ですら、ウェス世界のロジックのもとで均質化され、差異を奪われて、同化を強いられるということも意味します。これでは映画が硬直して、どの作品も同じものになってしまう恐れがあります」

つまり『絶望論』の著者廣瀬は、ウェス・システム(=ウェス・スタイル)に覆われてしまう世界に対して「出口なし!」と絶望しかけているのである(理路としてはこのあとそのシステムの「外部」を探すことになるのだが、それは一旦置いておこう)。

しかし翻って、ストローブ夫妻や廣瀬さんのように志の高くない「ふつうの」観客は、ウェス・スタイルが見たくて劇場に足を運ぶのではないだろうか。あるいは「カウリスマキ、また同じことやってら」と言って喜ぶのではないか。もっと卑近に言えば、「水戸黄門」シリーズで由美かおるが入浴したり、印籠が出されたりすると、「キターー!」と叫ぶのではないだろうか。

クリシェというものとどう付き合うかは人それぞれである。私見では、クリシェをこそむしろ楽しむという人が世の中の大半を占めていて、一部の、志の非常に高い(これは揶揄でも何でもない)人がクリシェを嘆いているように思われる。いずれにせよ「パイナップルズーム」からこれだけ思考を発展させることができたので、この先の思考は読者の皆さんに委ねることにしたい。カウリスマキは保守か革新か、それは重要な問いであると思う。

いいなと思ったら応援しよう!