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蜘蛛の意図

ある日の事でございます。
お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、一匹の蜘蛛とともにお歩きになっていらっしゃいました。
 
池の中に咲いている黄金の蓮の花からは、何とも云えない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢れております。
 
ふと、蜘蛛は前脚をあげて、極楽の畔に佇む一人の男を指し示しました。「お釈迦様、あの男はなぜ、この極楽へ召されたのでございましょうか」

蜘蛛は自嘲気味に、八つの眼を細めて語りました。
「というのも、あの男は、生まれたばかりの己の赤子の頬に私が這っているのを見咎めるや否や、無慈悲にも打ち払い、私を殺してしまったのでございます。それ以来、私もこうして極楽の厄介になっておりますが……」
 
「どうしたいのか」
お釈迦様は静かに御尋ねになりましたが、蜘蛛はただ恨めしげに目を伏せるばかりでございます。

するとお釈迦様は、器用に複雑な印を結ばれたかと思うと、低く真言を唱えられました。途端に、蜘蛛殺しの男の姿は極楽から霧のように掻き消え、たちまち蓮池の底、遥か下にある地獄の底へと姿を現したではございませんか。

「あれは、お前を殺めたに相違ないが、善行も多い男で――」お釈迦様はそう言いかけて、ふと御口を噤まれました。

蜘蛛は、水晶のような池の水すれすれから地獄の男を見下ろし、丸く膨れた腹をビクビクと脈動させながら頭の複眼を滑らかに艶めかせておりました。

×

さて、こちらは地獄の底でございます。
恐ろしい鬼の獄卒どもが、罪人らを手を緩めることなく苛め抜いております。
 
奴らもこの暗黒の世界の役人の端くれでございますから、決められた規則通りに手抜かりなく、永遠の折檻を繰り返しているのです。
 
蜘蛛殺しの男は、地獄に姿をあらわすや否や、たちまち鬼の金棒の餌食となりました。頭蓋が砕け、脳漿が飛び散り、からだは血塗れの地面に突っ伏しました。
 
しかし、鬼が金棒をドンと地面に突き下ろしますと、不思議なことに男は元通りに甦るのです。

その無惨な様を見て、極楽の蜘蛛は激しく腹部を震わせ、歓喜に打ち震えておりました。お釈迦様は、地獄の凄惨な様子には目を向けず、ただ蜘蛛の蠢く腹をうっとりと見つめておいでになりました。 

×

幾度となく死と甦りを繰り返したときでございます。男は、血走った目玉を左右に走らせて首を振ると、俄かに狂ったように駆けだしました。

そうして、自ら進んで恐ろしい針の山に身を投じたのです。針とは申しましても、それは冷たい鉄の杭のようなものでございます。それが、男のからだを無残に貫きました。
 
鬼は呆れたように溜息を吐くと、おもむろに金棒を地面に打ち下ろしました。
 
甦った瞬間、男は「きえぃッ」と怪鳥のような声をあげて駆けだすと、今度は灼熱の炎をあげて煮えたぎる血の池に何の躊躇いもなく飛び込みました。
 
しかし、赤銅色の水面に触れる前に、男のからだは業火に焼かれ、たちまち煤のような塊となってしまいました。

獄卒の鬼は、忌々しげに眉根を寄せて舌打ちをし、また金棒を地面に下ろしました。甦った男は、目を爛々と輝かせ、まるでこの責め苦を待ちわびるかのように地獄の様子を窺っております。

×

蜘蛛は、男がこの苦痛をどこか悦んでいるのではないか、と疑念を抱かぬ訣にはいきませんでした。
 
そんな思いに囚われますと、はじめの腹の奥が痺れるほどの歓喜は、すっかり消え失せておりました。
 
お釈迦様は「戻しますか」と蜘蛛にお尋ねになりました。蜘蛛がつまらなそうに頷きますと、お釈迦様は、蜘蛛の丸い腹をちょいと指先で摘みあげ、容赦なく蜘蛛の尻から糸をひり出させました。
 
尻の先から垂れた細い銀糸は、極楽の透明な光に煌めきながら、蓮池の水面から地獄の闇へ向かって、ゆるゆると下っていきました。

途中で糸の勢いが頼りなく弱まりますと、お釈迦様は無邪気な笑みを浮かべられ、蜘蛛の腹を一層強く圧搾なさるのでした。蜘蛛はそのたびに苦しげに、八本の脚で無暗に虚空をかきまわしました。
 
やがて、銀糸が男の鼻先に垂れ、頬のあたりを掠めました。男は、銀糸を辿って空を仰ぎ見ました。どこまでも高いところから糸は垂れ、果ては空の漆黒に星のように煌めいて揺れております。

男は一度は銀糸に手をかけましたが、なぜかパッとそれを離し、鬱陶しそうに払い除けてしまいました。はずみでふわりと逸れた銀糸は、傍らにいた別の罪人の肌に触れました。
 
その罪人は僥倖とばかりに糸をたぐり、必死に天へ駈け上っていきましたが、男はそんなことには頓着せず、獄卒の前で大口を開け、自らの舌を嬉々として抜かれているのでした。
 
獄卒の金棒が百八回目に振り下ろされたとき、先ほど銀糸を上っていった罪人が、糸が切れて真っ逆さまに落下してまいりました。

×

刹那、男は今度は地獄で甦らず、元の極楽に戻っておりました。

男が蓮池の畔の木製の長椅子で目を開きますと、そこはいつもと変わらぬ、静かで退屈な極楽でございました。
 
蜘蛛は忌々しそうに男を睨みつけておりました。

お釈迦様は「まあ、そういきり立つこともあるまい。それに見よ、男もさして喜んではおらぬではないか」と仰り、銀糸を吐き切ってひしゃげた蜘蛛の腹を、優しく指先で撫でられました。
 
目をさました男は、虚ろな目でひとりごちました。

「ああ、ひどい夢を見た――が、極楽よりはマシじゃったか。何しろここは、無間地獄と相違ない」
そう呟くと、男は「きえぃッ」と突然奇声をあげ、奇妙に顔を歪ませました。
 
しかし次の瞬間には、その顔から一切の表情が抜け落ちてしまったのでございます。
 
極楽では、黄金の蓮華が池に揺れ、空からは絶え間なく天花の雨が降り注いでおります。極彩色の鳥たちが清らかな声で法を説き、風が吹けば宝樹の調べが響き渡る世界――。

悩みも苦しみも一切なく、ただ静寂と慈しみに満ちた光の楽園が、いつまでも変わらずに広がっているのでございました。