劇評 『一角獣の六感』(河合穂高脚本・越谷真美演出)(蔭凉寺(岡山市))
関 竜司(日本SF作家クラブ会員・美術批評)
2026 年 1 月 30 日(金)から 2 月 1 日(日)にかけて岡山市・蔭凉寺で『一 角獣の六感』が上演された。『春の遺伝子』(2018)を発表後、現在最も精力的に活 動している劇作家・河合穂高の新作に、越谷真美(劇団・山の手事情社)が演出に 挑戦した意欲的で、知性を刺激する舞台だった。
細胞の老廃物を浄化し、エラーを修復する不老不死の人工細胞・モトドリガネ ア。この細胞のワクチンを打ち、夫は不死の体を手に入れたものの、妻は人魚病 という意識を失う病を患った夫婦の物語だ。研究機関の医師は言う。奥さんの過去 の記憶を抜き取って、新しい体に移植してはどうかと......。

生の様々な在り方を考えさせられる作品だった。今から 200 年後が想定されて いる世界(2200 年頃?)。人類は植物や動物の遺伝子を操作して、人型にし自ら に仕えさせているようだ。植物の遺伝子から作られた人型植物・月下美人は、5 年 で寿命を迎えるが、クローンの仲間と引き継がれた記憶があるため、自らの死は 深刻なものではないと言う。また人体の発する微弱な音波を感じ取り、記憶を読 みとる人型動物・海豚は、他の生物よりもはるかに長く生きるが、適度に記憶を 消去する操作をされている。「色んな人の記憶をどんどん入れて」いくと「どこ までが自分の記憶で、どこからが他人かわからなく」なるからだ。
これまでの河合穂高の脚本は、遺伝子や人体、種としての人間に注目し、人間の身体を生物学的・遺伝子工学的に解体する試みだった。それが今回は、人間の記憶の面に焦点を当てて、個としての人間の連続性・恒常性(ホメオスタシス)に鋭い疑問符を突き付けている。海豚の発言は、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』 (1774)を読んで、仮想の人物であるウェルテルに感情移入し自殺する若者が生まれた話を思い出させる。文学的な言語、あるいは言語や記憶の共有には、自分と他人との境界を曖昧にする作用があるのかもしれない(またそうした言語を、 私たちは文学的と呼んでいるのかもしれない)。

また本舞台は、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』(1967)と同じテーマを 持っているかもしれない。作家のミラン・クンデラは、『百年の孤独』を生殖に基づく家族小説だとし、そこに現れる登場人物を取り替えの効く長い行列だと評した。 「わたしの人生がわたし自身の人生を超えてつづくというなら、わたしの人生が独立 した実体ではないということになる。わたしたちの人生は未完成だ......個人が溶けこむ、溶けこんで、忘れられることに同意する(なら)......『万物の基本』としての個 人はひとつの幻想、賭け、ヨーロッパの数世紀間の夢にすぎないということにな る。」(ミラン・クンデラ『邂逅:クンデラ文学芸術論集』[河出文庫]58 頁)
個の連続性と不連続性という『一角獣の六感』に繰り返し現れるテーマは、近代小説の、あるいはもはや物語性を持って生きることのできない私たち現代人の存在理由 を鋭く問うている点で、ずっしりと重たい感触をもっている(ウルリッヒ・ベック)。 そこには河合氏の該博な知識、医学的知見が背後にあることはいうまでもない。(個 人的には、RSK イブンニング・ニュース「8 年後の豊島 離島の命に寄り添う看護 師・うたさん」[2023 年 7 月 26 日])なども思い出した。Youtube で閲覧可。)

本作は『人魚の器官』『漂う海馬』『一角獣の六感』と続いた三部作の最終部とな る。越谷真美の演出は、静謐で思索的な河合穂高の脚本を色調を崩さない形で、真に迫 る肌触りと実感をもって仕上げていたのが印象的だった。(アフタートークの「令和に生きる人間として描いてはいけ ないと思って演出した」という発言も印 象に残った。)「三部作を一度に上演する 機会があれば」との発言があったのももっともだ。
河合氏は言う。「私にとって、戯曲の 執筆は旅に似ています。未知の土地へ趣き、 その場所で起こる事象を記録するので す。」(本公演パンフレット)河合氏と 三部作の公演を主催した劇団・ OTO が、 今後どんな未知の大陸に私たちを連れて行 ってくれるか、楽しみでならない。 (2026年2月5日)


記録写真:yukiwo
