亀戸町のお為さん(嘉永三年〜)
12 五男河原崎長十郎
所用で木場にやってきた加納から長十郎の状況を聞き、為は胸が締めつけられる思いがした。あかん平を連れ、長十郎と同じ稽古場に通う加納が知り得た情報はこうだ。
河原崎座の若太夫である長十郎を、権之助と権之助の母常は、坊ちゃん坊ちゃんと呼んで大事にしている。幼い頃より、着る物、食べる物、玩具等には決して不便をかけず、贅沢させてきた。
しかし稽古となると少しの容赦もない。まず夜が明けるとご隠居が若太夫を起こしに行き、顔を洗わせ、すぐにご飯を食べさせ、踊りの師匠のところへ通わせる。よしという地弾きが雇われていて、このおよしさんが付いて稽古廻りをするので、長十郎は移動中も気の休まる時がない。長十郎が七歳の時、権之助にみつという嫁がきたが、このおみつさんも権之助と常同様厳格な人で、長十郎は三人の誰にも甘えることができない。
踊りの師匠は有名な四代目西川扇蔵さんで、この房蔵さんには、権之助から、
「どうか長十郎を本当の役者にしてくれ、決して太夫元の身体といって手加減などせず、かえって普通より厳しく仕込んでくれろ」
と、かねがね特別に頼んであったという。

踊りの後は上野広小路の山田という琴の師匠のところへ行き、琴がすむと今度は浅草馬道の清川という手習師匠のところへ行く。この三軒の稽古をすますとちょうど昼頃になるので、およしさんはこの間に猿若町の家へ引き返して弁当を取ってくる。そして若太夫と一緒にご飯を食べ、それからまた、すぐ筋向いの望月という謡の師匠のところへ行き、この家で揺と画を習う。その他、その時々によって、長唄や、三味線、お茶、生け花なども合間々々に習っている。
為は聞いていて、目眩がしそうだった。
「雨が降っても雪が降っても、芝居の用の他は、これだけの稽古を一度も抜いた事がないんだそうです」
加納は続ける。
「夕方に猿若町の家へ帰りますと、お菓子とお茶を食べさせて、すぐにまた自宅の舞台で踊りの復習をさせます。この時は地弾きのおよしさんが三味線を弾いて、ご隠居さんが前に座って見張っているそうなのですが、このご隠居さんの稽古がまた大変にやかましいのでして、その上、養父の権之助さんが一々検査して、出来が悪いかまたは忘れでもした箇所があればたちまち大目玉です。長十郎さんの稽古の声は私たちのいる八代目の家までよく聞こえました」
為はたまらなくなって話題を変えた。
「あかん平はどう。元気にやっている?」
「自分が育てました平坊ちゃんを若太夫に負けない様に仕込みたいと思いましてね、毎日同じ様な時間に起きては、同じお稽古を挑ませてみましたが、お身体の弱い子で、十日も続けて通いますと、直ぐに熱が出てしまうので。それにわたくしがあまり厳しくいたしますと、親方が眞面目におなんなすって、おい、ばぁや、そんなにやかましくすると、病気が出て死んでしまうぜ。もし、あかん平が死んだらどうする。そうなってからお前が生んで返してくれる事が出来るか、なんておっしゃるものですから」
為は海老蔵の子煩悩ぶりに笑った。そして長十郎との境遇の違いを思い、長十郎がますます不憫でならなくなった。
嘉永三年十一月、三代目三津五郎の未亡人の後押しで、四代目坂東三津五郎が十一代目森田勘彌を襲名した。十代目森田勘彌が上方で客死して以来、十数年来絶えていた名跡である。四代目三津五郎は休座中の森田座が復活した際、座元としての能力も求められることになる。
翌嘉永四年の五月下旬、八代目が大病した。海老蔵、猿蔵、あかん平が出演中の河原崎座の楽屋に市村座から人が飛んで来て、
「大変です、八代目がお死になさいました」
と言った。八代目が市村座の舞台で悶絶して倒れ、動かなくなったという。海老蔵と猿職はびっくりして、大急ぎで市村座の楽屋へ駆け付けた。
死んではいなかったが、意識を取り戻すまで二時間かかった。
「体調が悪い中、舞台に出続けたのがいけなかった」
海老蔵は言い、疲れた身体には睡眠が一番の治療という事で、とにかく寝かせた。
全快してからは鯛を買い、市川家で盛大に快気祝いをした。海老蔵はこの時もまた、二代豊国(三代豊国)を呼んで描いてもらっている。長十郎は稽古で来れなかった。

(左から)八代目団十郎、三男高麗蔵、六男幸蔵
関羽の絵は豊国が描いた海老蔵
(ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより)
長十郎は限界だった。毎日毎日早朝から夜遅くまで稽古漬けで、ようやく稽古から解放されて自由な時間を持とうとしても、翌朝も早いからと無理に寝かされる。自由になるのは厠へ行く時くらいだ。
扇蔵師匠が病気になり、代わりの師匠が来た時のことだ。やれやれ今日は怠けても大丈夫と気を抜いて踊ったら、帰り際に奥の間に寝たっきりだった扇蔵師匠に呼び止められた。寝間から不機嫌な声で、
「坊ちゃん、こっちへいらっしゃい」
というので入って枕元に座ると、
「今日の踊りは、あれは何というざまだ。あんな根性じゃあ、所詮ろくな役者にゃあなれないぞ」
とさんざん叱られた。いい加減に踊ったことが、二間も隔たった寝間からなぜわかったのかと驚いていたら、寝込みながらじっと足拍子を聴いていたのだという。この時感じた恐怖は生涯忘れないと長十郎は思う。
七代目(五代目海老蔵のこと)の御目見得公演の翌年、長十郎は「七代目がお前の実の親だ」と、事情を知る者にこっそり聞かされた。驚いたが、腑に落ちるところもあった。稽古の時、居合わせた七代目が父(六代目河原崎権之助)に、
「そんなに厳しくせずともいいじゃないか」
と言ってくれたことがあり、何となく優しい、感じのいいおじさんだと思っていた。厳しい大人ばかりの環境で過ごしている長十郎にとって、唯一七代目だけが、気を抜いても許してくれる大人だった。
その翌年の嘉永五年九月のこと。長十郎が十月に十四になろうという年、将軍家に若君が誕生した。その子が長吉郎と名付けられたため、長の字を憚った権之助は、長十郎を権十郎と改め元服させた。
この権十郎という名は、二代目団十郎が三代目河原崎権之助の子につけた名だった。
「成田屋二代目の付けた名を長十郎が継ぐことになるたあ、これも何かの因縁かもしれねえ」
海老蔵は言い、為も同意した。
為は長十郎と切っても切れない縁のようなものを感じ、かつて彼がいたお腹にそっと手を当てた。
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