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後飯から見えてくる美学

人混みが苦手だ。

体調が悪い日は特に顕著で、混んだ場所にいると落ち着きを失い、逃げ出したくなる。これは意志の問題ではない。体質でもない。おそらく、思想だ。

考えてみれば、おかしな話である。なぜ人は、12時から13時のあいだに、一斉に腹を減らさなければならないのか。会社が、学校が、社会全体が「この時間に食べなさい」と決める。そしてほぼ全員が、その命令に従う。街は人で溢れ、飲食店には行列ができ、ランチメニューは14時で終わる。

私はどうやら、無意識のうちにこの管理を拒絶しているらしい。

空腹は自分の腹が決めるものだ。12時の時報が決めるものではない。胃袋に時計は内蔵されていない。それなのに、「さあ昼だ」という号令に合わせて一斉に椅子を引いて立ち上がる光景は、どこか全体主義的な匂いがする。郵便局が11時から2時半まで窓口を閉める。UFJ銀行も昼休みに入る。——社会がある時間帯を「昼」と決め、全員がそこに吸い込まれていく。サービスとは本来、そういうものではなかったはずだが。

ふと、思うことがある。決まった時間に、一人で食べる昼食は、**「エサの時間」**ではないか、と。

号令がかかる。席を立つ。列に並ぶ。口に入れる。席に戻る。そこに「食事」はあるか。咀嚼はあるかもしれない。しかし、味わいはあるか。余白はあるか。自分の意志はあるか。動物園の動物は、決まった時刻に、決まった場所で、与えられたものを食べる。文句は言わない。なぜなら、それが「そういうもの」だからだ。私は、その光景と、12時の社食や牛丼チェーンの行列を、どうしても重ねてしまう。

並んでまで飯を食いたくない。揉みくちゃになりながら、飯を食いたくない。

食事とは、本来、静かな行為のはずだ。咀嚼し、味わい、少しぼんやりする。そのためには、ある程度の「余白」が必要だ。隣の人間の肘が当たる距離で食べる飯は、もはや補給であって、食事ではない。エサである。以前、仕事の約束で「12時は食事の時間なので避けてほしい」と言われたことがある。先方の希望なので従ったが、内心では逆のことを思っていた。12時こそ、ラウンジもカフェも空いているのに。 私がいつも狙うのは、1時半から2時半だ。ピークが過ぎ、店内に静けさが戻り、店員の表情にも余裕が生まれる時間帯。そこで初めて、食事が「食事」になる。エサではなく。

気づけば、この習慣は単なる「逃避」ではなくなっていた。

時間をずらし続けることで、私はある能力を獲得していた。人の動きを、客観的に観察する目だ。 混雑のピークから外れた場所に立ち続けると、人間の行動にリズムとパターンがあることが見えてくる。「集団心理の間」とでも言うべきものだ。みんなが動く瞬間の、少し手前と少し後ろ。そこに、必ず「隙間」がある。

旅行でも同じだ。観光シーズンをわずかに外した時期は、気候的には問題なく、しかし航空券は明らかに安い。人気の観光地でトイレに長蛇の列ができているとき、別の階のトイレはがらんとしている。これは、勘ではない。観察の蓄積だ。 人が「そこに行く」と決める理由は、大抵、深く考えた結果ではない。なんとなく、みんながそうしているから。広告がそう言っているから。——集団は、思ったよりずっと、無意識に動いている。だから、その動きを少し外側から眺めていれば、「次にどこが空くか」が見えてくる。電車の遅延にも、天候による交通の乱れにも、私はほとんど巻き込まれたことがない。混む前に動くか、混みが解消されてから動くか。それだけのことだ。

この感覚は、そのままビジネスに転用できる。マーケットが熱狂しているとき、その熱狂の外側に需要が生まれていることがある。競合が一斉に同じ顧客層へ向かうとき、見落とされているセグメントが静かに育っていることがある。みんなが「これが正解だ」と言い始めた瞬間、その正解は既に陳腐化に向かっている。人の行動の裏を読む、というのは、マーケティングの本質でもある。 私が婚活の現場で長年やってきたことも、突き詰めればこれに近い。「みんなが求めているもの」ではなく、「その人が本当に必要としているもの」を、少し斜めから照らす。集団の文法ではなく、個人の文脈を読む。

なぜこういう人間になったのか。自分の過去を紐解くと、一つの答えが見えてくる。私はコミュ障のくせに、長くサービス業に関わってきた。工場勤務の時期でさえ、率先して「後飯」を引き受けていた。13時以降、喧騒が引いてから食べる、あの遅い昼食だ。誰かが先に行かなければならない。ならば自分が後でいい——そういう選択を、無意識に繰り返してきた。

だが今思えば、それは単なる謙遜ではなかったのかもしれない。管理されたくなかったのだ。エサの時間に、並びたくなかったのだ。 そしてその小さな抵抗の積み重ねが、気づかぬうちに「人を外側から観る目」を育てていた。

社会が「今だ」と言う瞬間に合わせない。人が動く方向とは、少しだけズレた場所に立つ。それが、私の生き方の基底にあるものだと、1時半のランチを食べながら、ぼんやりと思う。

「いつ食べるか」は、「どう生きるか」と、案外地続きである。 「何を食べるか」より先に、「エサにならない」ことを、私は選んできたのかもしれない。 ——その選択が、人を読む目を、静かに鍛えていた。

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