見出し画像

ロシア専制体制の歴史と現状~中国との対比を交えて~

はじめに

 ロシアの歴史を考えるうえで、専制体制は避けて通れない問題です。ロシアでは、15世紀後半にモスクワ大公国を中心とする統一国家が形成されて以降、ツァーリ専制、ロシア帝国、ソ連型一党独裁、そして現代の権威主義体制へと、政治体制は大きく変化してきました。

 しかし、その底には、強い国家権力が社会を上から統合し、民衆やエリートを国家に従属させるという共通した構造が流れています。

 もちろん、ロシアにおいて専制が最初から完成していたわけではありません。15世紀後半以前のロシア地域は、まだ現在の意味での統一ロシア国家ではありませんでした。キエフ・ルーシの伝統を受け継ぐ諸公国が並立し、ノヴゴロドのような商業都市には都市集会的な要素もありました。現代的な民主主義とはまったく違いますが、少なくとも後のモスクワ国家のように、君主が国家と社会を一元的に支配する体制ではありませんでした。

中国との出発点の違い

 この点は、中国と大きく違います。

 中国では、秦が紀元前221年に統一帝国を作った段階で、郡県制、戸籍、租税、官僚制度を通じて、国家が民を直接把握する仕組みが作られました。秦は短命でしたが、その後の漢以降、中国王朝は「皇帝―官僚―民」という形で、国家が社会を直接管理する構造を発展させていきました。中国の専制は、非常に早い段階から、官僚制と文書行政によって支えられていたのです。

 これに対して、ロシアの専制は、中国型の戸籍・官僚制から始まったものではありません。ロシアの場合、専制を作った大きな要因は、モンゴル支配の経験、モスクワ大公国の軍事的成長、奉仕貴族制、農奴制、正教会による君主権力の神聖化、そして後の軍事官僚国家化でした。

 つまり、中国が「官僚が民を直接管理する専制国家」だったとすれば、ロシアは「国家が貴族を縛り、貴族が農民を縛る専制国家」として発展したのです。

モンゴル支配とモスクワ大公国の台頭

 13世紀、ルーシ諸公国はモンゴル=タタールの支配下に入りました。キエフは1240年にモンゴル軍によって攻略され、その後、ルーシ諸公は金帳ハン国に服属し、貢納を行う立場になりました。

 モンゴルは、中国における元朝のように、ロシア地域を完全な官僚制で直接支配したわけではありません。しかし、各公に服属を求め、貢納を課し、支配権を承認するという形で、ルーシ諸公国を上から統制しました。

 この時代に台頭したのが、モスクワ大公国でした。モスクワは、モンゴル支配に単に抵抗しただけではありません。むしろ、モンゴル支配の枠組みの中で、他の諸公国より有利な地位を得て、徴税や貢納の仲介者として力を蓄えていきました。

 ここに、後のロシア国家の重要な特徴が現れています。すなわち、外圧の中で強い中央権力が必要とされ、その中央権力が周辺勢力を従属させながら成長していくという構図です。

イヴァン3世とロシア国家の形成

 15世紀後半になると、イヴァン3世の時代にモスクワ大公国は大きく飛躍しました。イヴァン3世はノヴゴロドなど周辺の有力勢力を併合し、「全ルーシ」の統合を進めました。また、モンゴル=タタールへの従属から脱し、モスクワを新しいロシア国家の中心に押し上げました。

 この時期から、ロシアにおける本格的な中央集権国家が形成されていきます。

 ここで重要なのは、モスクワ国家が、地方の自立的な貴族や都市を認める方向ではなく、それらを上から吸収し、君主権力の下に組み込んでいったことです。中国でいえば、秦が封建諸侯を解体し、郡県制によって中央集権国家を作ったことに似ています。

 ただし、中国の秦が官僚制によって民を直接管理したのに対し、モスクワ国家は軍事力と土地支配を通じて、貴族を君主に従属させる形で専制を強めていきました。

イヴァン雷帝とツァーリ専制の強化

 16世紀のイヴァン4世、いわゆるイヴァン雷帝の時代になると、ロシアの専制はさらに強化されました。イヴァン4世は1547年に「ツァーリ」を称し、自らを単なる大公ではなく、神に選ばれた絶対的君主として位置づけました。

 ビザンツ帝国の後継者という意識、正教会による君主権力の神聖化、そして「第三のローマ」という思想も、モスクワ国家の専制化を支えました。

 イヴァン雷帝の統治で象徴的なのが、オプリーチニナです。これは、ツァーリ直属の領域と親衛隊を使って、旧来の大貴族層を弾圧し、君主権力への服従を徹底させる政策でした。

 ここには、ロシア専制のかなり荒々しい性格が表れています。中国の専制が、少なくとも建前としては官僚制、法、儒教的秩序によって支えられていたのに対し、ロシアの専制は、しばしば暴力、恐怖、土地没収、粛清によって支えられました。

奉仕貴族制――ロシア専制の中核

 ロシア専制の中核をなしたのが、奉仕貴族制です。

 ロシアでは、貴族は単に血筋によって特権を持つ存在ではなく、ツァーリに軍事・行政で奉仕する存在として組み込まれました。土地を与えられる代わりに、国家に仕えることが求められたのです。

 ポメスチエと呼ばれる土地保有制度では、土地の保有が勤務義務と結びついていました。つまり、貴族は土地を自分の完全な私有財産として持つというより、ツァーリへの奉仕の見返りとして支配権を認められたのです。

 ここが、中国との決定的な違いです。

 中国では、皇帝が科挙官僚を通じて地方を統治しました。官僚は地主層や士大夫層と結びついていましたが、制度上は皇帝に任命された文官として行政を担いました。

 これに対してロシアでは、ツァーリが奉仕貴族を軍事・行政に動員し、その貴族が農民を支配しました。したがって、中国が「皇帝―官僚―民」の専制であったとすれば、ロシアは「ツァーリ―奉仕貴族―農民」の専制だったと言えます。

農奴制――民衆を土地に縛る仕組み

 さらに、ロシア専制を社会の底辺から支えたのが農奴制でした。

 17世紀には農民の移動が厳しく制限され、1649年の会議法典によって農奴制が法的に固められました。農民は土地と地主に強く拘束され、自分の意思で自由に移動することが困難になりました。

 これは、国家にとって非常に便利な仕組みでした。なぜなら、国家はすべての農民を直接管理しなくても、地主と貴族を通じて農民を間接的に支配できたからです。

 この点でも、中国とは違います。中国にも戸籍、租税、賦役、里甲制などによる民衆管理はありました。しかし、中国の農民は王朝国家の戸籍に登録され、国家の租税・労役の対象として把握される存在でした。

 ロシアの農民は、より強く土地と地主に縛りつけられた存在でした。つまり、中国では国家が官僚を通じて民を管理し、ロシアでは国家が貴族を縛り、貴族が農奴を縛る構造が発達したのです。

ピョートル大帝と軍事官僚国家

 18世紀のピョートル大帝の時代になると、ロシア専制はさらに近代的な軍事官僚国家へと変貌しました。ピョートル大帝は西欧化政策を進め、軍隊、官僚制、海軍、産業、教育制度を改革しました。

 しかし、その目的は自由な市民社会を作ることではありませんでした。むしろ、国家を強くし、ヨーロッパ列強に対抗できる軍事大国を作ることが目的でした。

 1722年の官等表は、その象徴です。官等表は、軍人、文官、宮廷官を等級化し、国家勤務を通じて身分上昇を可能にする制度でした。これは一見すると能力主義的に見えますが、実際には、すべてのエリートを国家勤務に組み込む仕組みでした。

 貴族は国家に奉仕し、国家に従属する存在として再編されました。ここでも、ロシアの支配層は、自立した市民階級や議会貴族ではなく、国家に仕える奉仕エリートとして作られていったのです。

中国の科挙官僚制との違い

 中国の科挙官僚制と比べると、この違いは鮮明です。

 中国の官僚制は、儒教的教養と試験によって選ばれた文官を中心にしていました。もちろん、それは民主主義ではありませんし、皇帝専制を支える制度でした。しかし、中国の官僚制には、文治主義、秩序、制度、文章行政という性格が強くありました。

 これに対して、ロシアの官僚制は、より軍事的で、命令服従的で、国家への勤務義務を中心にしていました。

 中国が「文官官僚の専制」であったとすれば、ロシアは「軍事官僚の専制」だったと言えます。

19世紀の改革と専制の限界

 19世紀に入っても、ロシア帝国の専制は続きました。フランス革命やナポレオン戦争の影響を受け、ロシアにも改革や立憲主義を求める声は現れました。1825年のデカブリストの乱は、その象徴です。

 しかし、これは失敗し、その後のロシア帝国はむしろ専制を強めました。ニコライ1世の時代には、「正教・専制・国民性」というスローガンが掲げられ、ツァーリ専制がロシア国家の根幹であるとされました。

 19世紀後半、アレクサンドル2世は1861年に農奴解放を行いました。これはロシア史上きわめて大きな改革でした。しかし、農奴が解放されたからといって、ただちに自由な市民社会が生まれたわけではありません。

 農民は土地償還金を負担し、共同体であるミールに縛られ続けました。地方自治制度であるゼムストヴォも導入されましたが、帝国全体を民主化する制度にはなりませんでした。ロシアでは、農奴制が廃止されても、国家が社会を上から統制する構造は残り続けたのです。

1905年革命と短い立憲期

 1905年の革命後、ロシアにはドゥーマ、すなわち議会が設けられました。これによって、ロシアは形式上、無制限のツァーリ専制から制限付きの立憲君主制へ移ったように見えました。

 しかし、皇帝権力はなお非常に強く、議会はしばしば解散され、自由な政治競争が安定して根づいたわけではありませんでした。したがって、1905年から1917年までは、たしかにロシア専制が揺らいだ時代ではありましたが、本格的な民主主義の時代とは言えません。

1917年革命と自由化の挫折

 1917年、二月革命によってロマノフ王朝は倒れました。このとき、ロシアには一時的に自由な政治の可能性が開かれました。臨時政府が成立し、言論、結社、政党活動が広がり、憲法制定議会への期待も高まりました。

 しかし、この自由化の時期は非常に短く、同年十月にはボリシェヴィキが権力を掌握しました。

 したがって、ロシア史の中で、比較的自由で競争的な政治が全国規模で開かれた時期は、1917年の数か月と、1990年代の一時期を合わせても、厳密には十年に満たないと言えます。広く見積もっても、1905年から1917年までの制限付き立憲期を含めて二十年余りにすぎません。

中国にも短かった自由政治の経験

 ここも、中国とよく似ています。

中国でも、秦漢以降の二千年以上の歴史の中で、専制体制でなかった時期はきわめて短いものでした。清朝が倒れた1912年から1913年ごろには、議会政治と政党政治の可能性がありました。しかし、宋教仁暗殺や袁世凱の権力集中によって、その可能性はすぐに失われました。

 中国本土で安定した自由競争政治が根づいた時代は、ほとんど存在しなかったと言えます。ロシアも中国も、長い歴史の中で、自由な政治競争の経験が非常に短かったという点で共通しています。

ソ連体制――ツァーリなき専制

 ただし、1917年以降のロシアでは、専制の形が大きく変わりました。ツァーリは倒れましたが、専制そのものが消えたわけではありません。

 ソ連では、共産党一党支配という新しい形の専制が作られました。マルクス主義の理念では、労働者と農民の国家が作られるはずでした。しかし実際には、権力は共産党、さらにその中枢である党指導部に集中しました。

 レーニンの時代には、内戦、赤色テロ、反対派の弾圧、チェーカーによる治安統制が進みました。スターリンの時代になると、党独裁はさらに個人独裁に近い形へと変質しました。大粛清、強制収容所、集団化、計画経済、秘密警察によって、国家は社会の隅々まで介入しました。

 ここでは、ツァーリ専制とは違うイデオロギーが掲げられていました。しかし、国家が社会を上から動員し、個人を国家目的に従属させるという構造は、ロシア史の長い流れと断絶しているだけではありません。むしろ、別の形で継続していたとも言えます。

ソ連と中国共産党体制の共通点と違い

 中国との対比で見ると、ソ連型専制と中国共産党体制には強い共通性があります。どちらも共産党一党支配であり、党が国家、軍、司法、メディア、教育を指導する体制です。

 ただし、中国共産党体制は、中国古来の官僚国家の伝統と結びつきやすい性格を持っていました。中国では、皇帝が共産党に置き換わり、科挙官僚が党官僚に置き換わった、と見ることもできます。もちろん制度はまったく同じという訳ではありませんが、「中央の正統権力が官僚機構を通じて民を管理する」という構図には連続性があります。

 一方、ロシアの場合、ソ連体制は党官僚制であると同時に、秘密警察軍事動員、資源配分、強制労働と深く結びついていました。中国にも同様の側面はありましたが、ロシアではとくに国家安全保障機関の役割が大きく、後のプーチン体制におけるシロヴィキの台頭にもつながっていきます。

ソ連崩壊と1990年代の自由化

 1991年、ソ連は崩壊しました。この時期、ロシアには再び自由化の可能性が開かれました。エリツィン時代には、複数政党制、比較的自由なメディア、選挙政治、市場経済が導入されました。ロシア史の中では、非常に珍しい自由化の時期でした。

 しかし、この時代は同時に、多くのロシア人にとって、混乱、貧困、犯罪、汚職、オリガルヒの台頭、国家の弱体化として記憶されました。

 ここで、ロシア民衆の秩序志向が再び強く働きました。ロシア人が生まれつき専制を好むという意味ではありません。しかし、ロシア史には、弱い国家が混乱を生み、生活を破壊するという記憶が深く刻まれています。

 動乱時代、革命、内戦、スターリン期、独ソ戦、ソ連崩壊後の混乱は、いずれも「国家が崩れると民衆の生活も壊れる」という感覚を強めました。そのため、多くの人々にとって、自由よりも秩序、政治参加よりも生活安定、弱い政府よりも強い政府が望ましいものとして感じられやすくなりました。

中国の「乱への恐怖」とロシアの「国家崩壊への恐怖」

 中国にも似た心理があります。

 中国では、王朝交替、農民反乱、太平天国、軍閥時代、日中戦争、国共内戦、文化大革命など、「乱」の記憶が非常に強くあります。そのため、中国では「乱を避ける」「食わせる」「秩序を守る」ことが、政治権力の正統性の中心になってきました。

 中国人は「乱」を恐れ、ロシア人は「国家崩壊」を恐れる、と言うことができます。

 どちらも自由より秩序を優先しやすい社会的土壌を持っていますが、その背景は少し違います。中国は「乱への恐怖」から秩序を求め、ロシアは「国家崩壊への恐怖」から秩序を求めるのです。

プーチン体制と権威主義の再編

 2000年以降、プーチン体制のもとで、ロシアは再び強い権威主義国家へと向かいました。プーチンは、1990年代の混乱を克服し、国家の威信、秩序、安定を取り戻す指導者として登場しました。

 メディアは統制され、野党は制約され、司法の独立は弱まり、地方の自立性も縮小しました。大統領権力は強化され、政治競争は形式的なものになっていきました。

現代ロシアの支配構造を考えるうえで重要なのが、オリガルヒ、シロヴィキ、国営企業幹部です。

 1990年代のオリガルヒは、民営化の過程で巨大な資産を手に入れ、政治にも強い影響力を持ちました。しかし、プーチン時代になると、オリガルヒは国家を動かす存在ではなく、国家に従属する存在へと再編されました。

 政権に忠誠を示す者は資産と地位を保てますが、政権に逆らう者は逮捕、追放、資産剥奪の対象になり得ます。

現代の奉仕貴族――オリガルヒとシロヴィキ

 この構造は、ある意味で、かつての奉仕貴族制に似ています。

 昔の奉仕貴族は、ツァーリに軍事・行政で奉仕する代わりに土地と農民支配を認められました。現代のオリガルヒや国営企業幹部は、政権に忠誠を示す代わりに資産、利権、地位を認められています。

 したがって、奉仕貴族制の現代版は、単にオリガルヒだけではありません。むしろ、シロヴィキ、国営企業幹部、政権周辺の実業家を含む**「奉仕エリート層」**と見るべきです。

 シロヴィキとは、軍、治安機関、情報機関、警察、検察などの出身者を中心とする権力エリートです。プーチン自身が旧KGB出身であることもあり、現代ロシアでは、シロヴィキが国家の中枢で大きな力を持っています。

 これは、ピョートル大帝以来の軍事官僚国家の伝統ともつながります。ロシアでは、文官官僚よりも、しばしば軍事、治安、秘密警察、国家安全保障の論理が政治の中心に置かれてきました。

現代中国との違い

 中国と比べると、ここにも大きな違いがあります。

 中国では、現代の支配層は基本的に共産党官僚です。富豪や民間企業家も党に従属しますが、支配の中心にあるのは制度化された党組織です。中国は「党に従う資本家」を作る体制です。

 これに対して、ロシアは「君主的人物に従う資本家・治安官僚・国営企業幹部」を作る体制です。

 中国の方が党組織として制度化されており、ロシアの方が個人支配、宮廷政治、縁故支配の色が濃いと言えます。

ロシア専制の連続性

 このように見ると、ロシアの専制体制は、単純にツァーリ時代から現在まで同じ形で続いてきたわけではありません。ツァーリ専制、ロシア帝国、ソ連、プーチン体制は、それぞれ制度も理念も異なります。

 しかし、それらを貫く共通点はあります。それは、国家が社会より上位に置かれ、エリートも民衆も国家権力に従属させられるという構造です。

中国の専制は、古代以来の戸籍、郡県制、官僚制、科挙、文書行政によって、国家が民を直接把握する仕組みとして発達しました。

 これに対して、ロシアの専制は、モンゴル支配の経験、モスクワ大公国の中央集権化、奉仕貴族制、農奴制、軍事官僚国家化、シロヴィキ支配を通じて、国家がエリートを従属させ、そのエリートを通じて社会を支配する仕組みとして発達しました。

中国は官僚制の専制、ロシアは奉仕エリートの専制

 一言で言えば、中国は「官僚制の専制」です。ロシアは「軍事・土地支配・奉仕エリートの専制」です。

 中国では、皇帝が官僚を通じて民を管理しました。現代では、共産党が党官僚を通じて社会を管理しています。

 ロシアでは、ツァーリが奉仕貴族を通じて農民を支配しました。現代では、大統領権力がシロヴィキ、国営企業幹部、政権従属型オリガルヒを通じて国家と社会を支配しています。

 したがって、ロシアの専制体制を理解するには、「ロシア人は自由を好まない」というような単純な説明では不十分です。むしろ、ロシア国家はその成立過程からして、外敵への対応、広大な領土の統合、貴族の統制、農民の拘束、軍事力の維持を必要としてきました。その結果、国家が社会を支配する仕組みが何度も再生産されてきたのです。

民衆の秩序志向

 そして、民衆の側にも、混乱より秩序を好む心理が形成されました。これは中国にも共通します。

 ただし、中国では「乱」への恐怖が中心であり、ロシアでは「国家崩壊」への恐怖が中心です。

 中国では、秩序を保ち、食わせ、社会を安定させる国家が正統性を持ちやすいです。ロシアでは、弱い国家よりも、外敵に屈せず、国内を統制し、大国としての威信を守る強い国家が支持されやすいです。

 この違いは、両国の政治文化を理解するうえで重要です。

結論

 結局、ロシア専制の歴史は、制度の名前を変えながら続いてきた「強い国家への依存」の歴史です。

 ツァーリは倒れ、ロマノフ王朝は消えました。ソ連も崩壊しました。しかし、国家が社会を上から統合し、エリートに忠誠を求め、民衆に秩序と服従を求める構造は、形を変えながら現在まで残っています。

 その意味で、ロシアの専制体制は、15世紀後半のモスクワ国家成立以来、約500年以上にわたり、断絶と変化を含みながらも、深い連続性を持って続いてきたと言えます。

 自由で競争的な政治が比較的開かれていた時期は、1917年の数か月と1990年代の一時期を合わせても、厳密には十年に満たない程度です。広く見積もっても、1905年以降の制限付き立憲期を含めて二十年余りにすぎません。

 これは、中国とよく似ています。中国もまた、秦漢以降の二千年以上の歴史の中で、専制体制でなかった時期はきわめて短いものでした。

 中国では、秦が紀元前221年に統一帝国を作って以降、皇帝を頂点とする中央集権的専制国家が政治の基本形となりました。王朝交替や分裂の時代はありましたが、それは民主政治の時代ではありませんでした。中国本土で専制体制でなかった時期を厳密に数えれば、辛亥革命後の1912年から1913年ごろまでの1、2年程度にすぎません。つまり、中国は二千二百年以上の歴史の大部分を、何らかの専制体制のもとで過ごしてきた国なのです。

 中国が「古代官僚国家の長い専制」を持った国であるとすれば、ロシアは「軍事的中央集権国家の長い専制」を持った国です。両者は同じ専制国家でありながら、その成り立ちは異なります。

 中国では、民を直接管理する精密な官僚国家が専制を支えました。ロシアでは、奉仕貴族、農奴制、軍事官僚、シロヴィキ、オリガルヒ的利権構造が専制を支えました。

 この違いを押さえると、ロシアと中国は、どちらも「自由な市民社会が国家権力を制限する歴史」ではなく、「国家権力が社会を上から包み込む歴史」を歩んできたことが見えてきます。

 ただし、中国は官僚制によって社会を包み込み、ロシアは軍事・土地・奉仕エリートによって社会を包み込んできたのです。

民主主義化の可能性

 最後に、ロシアと中国に民主主義化の可能性があるのか、という問題にも触れておく必要があります。

 結論から言えば、可能性はゼロではありませんが、短期的にはかなり小さいと言わざるを得ません。なぜなら、両国とも、単に現在の政権が強権的であるというだけではなく、長い歴史の中で、国家が社会を上から統合する政治文化を作り上げてきたからです。

 ロシアの場合、民主主義化の可能性は、プーチン体制の動揺、戦争や経済危機、エリート内部の分裂、後継者問題などによって開かれる可能性があります。ロシアの権威主義は、中国共産党体制ほど制度化された党組織に支えられているわけではなく、大統領個人、シロヴィキ、国営企業、政権従属型オリガルヒの結合に大きく依存しています。そのため、最高権力者の交代や体制内部の亀裂が起きた場合、政治変動が急速に進む可能性はあります。

 しかし、それがただちに民主主義につながるとは限りません。ロシアでは、自由で競争的な政治の経験がきわめて短く、市民社会、政党政治、独立司法、自由メディアが長期にわたって弱体化されてきました。現在もロシアはFreedom Houseによって「Not Free」と評価され、2026年版では100点満点中12点にとどまっています。 つまり、仮に現体制が揺らいでも、その後に再び別の強権的指導者や国家主義的体制が現れる可能性も十分にあります。

 中国の場合、民主主義化の可能性はさらに複雑です。中国共産党体制は、ロシアのような個人支配だけではなく、党、軍、官僚、治安機関、国有企業、地方政府を含む巨大な組織によって支えられています。しかも、中国には秦漢以来の官僚制国家の伝統があり、国家が民を直接管理する仕組みが非常に長く続いてきました。現代中国では、それが共産党の党組織、監視技術、社会管理制度と結びついています。

 そのため、中国の民主主義化は、単に一人の指導者が交代すれば進むというものではありません。党の内部に大きな分裂が生じるか、経済成長による正統性が深刻に揺らぐか、社会の側に自立した中間組織や市民社会が広がるか、国際環境が大きく変化するか、そうした複数の条件が重ならなければ、民主化は容易ではありません。現在の中国もFreedom Houseによって「Not Free」と評価され、2026年版では100点満点中9点にとどまっています。

 ただし、ここで注意すべきなのは、ロシア人や中国人が本質的に民主主義に向いていない、ということではありません。問題は、民族性ではなく、歴史的に形成された制度と政治文化にあります。長い専制の歴史の中で、国家に対抗する市民社会、権力を制限する法制度、政権交代を当然視する政治文化が十分に育ちにくかったのです。

 したがって、ロシアと中国の民主主義化を考える場合、単に「独裁者が倒れれば民主化する」と考えるのは楽観的すぎます。必要なのは、権力を制限する制度、独立した司法、自由な言論空間、自立した市民団体、政権交代を可能にする政党政治、そして民衆が混乱を恐れずに自由を支えられるだけの社会的基盤です。

 ロシアでは、「国家崩壊への恐怖」をどう乗り越えるかが大きな課題になります。中国では、「乱への恐怖」をどう乗り越えるかが大きな課題になります。

 両国とも、民衆は混乱を嫌い、秩序を求めます。そのため、民主化が進むとしても、それは単なる反体制運動だけでは不十分です。自由が混乱ではなく、安定した生活と法の支配をもたらすのだという信頼を、社会の中に作っていく必要があります。

 結局、ロシアと中国の民主主義化の可能性は、歴史的に閉ざされているわけではありません。しかし、その道は非常に険しいものです。両国はともに、専制主義を一時的な例外としてではなく、長い国家形成の中で育ててきた国です。だからこそ、民主化には、単なる政権交代ではなく、国家と社会の関係そのものを作り替えるほどの深い変化が必要になるのです。

いいなと思ったら応援しよう!