見出し画像

戦狼外交の本質~文明意識と社会性の欠如が生む中国の矛盾

 中国を理解するうえで、避けて通れない大きな矛盾があります。それは、きわめて高い文明意識を持ちながら、他人と共に公共空間を生きるための社会性が、十分に育ちにくかったという問題です。

 中国は古くから、自らを文明の中心と考えてきました。漢字、礼制、官僚制、儒教的秩序を備えた中華世界は、周辺の世界を未開、辺境、夷狄として位置づけ、自分たちこそが秩序ある文明を体現しているという強い自己意識を育ててきました。いわゆる華夷思想(中華思想)です。

 筆者は、通算約18年にわたり中国に滞在し、中国社会を内側から観察する機会に恵まれました。その日常の中で強く感じたのは、中国人の言葉の端々に表れる「自分たちは文明的である」という意識でした。それは単なる民族的な誇りではありません。自分たちは文明の中心にあり、周辺の人びとはそれに及ばないという、長い歴史に根ざした世界観が、今なお中国人の精神文化の底流に生きていることを示していました。

 しかし、さらに深く中国社会に入り込んでいくと、そこには別の現実が見えてきます。高い文明意識とは裏腹に、公共空間で他人と協調して生きる感覚が、必ずしも十分に育っていないのです。

 ある時、私は鉄道駅の切符売場で、係員の女性からぶっきらぼうで横柄な対応を受けました。その時、思わずこう言いました。 「あなたが他人に親切に接し、皆が他人に親切に接するようになれば、この社会はずいぶん住みやすくなる。しかし、あなたのように他人に不親切に接する人ばかりなら、この社会は実に住みにくいものになる。これが『社会』というものです」

 外国人である私に、そこまで言わせたものは何だったのでしょうか。それは、中国社会における「見知らぬ他人と共に生きる感覚」の弱さでした。

 もちろん、これは中国人一人ひとりの人格の問題ではありません。親切な人、誠実な人、情に厚い人は、中国にも数多くいます。むしろ問題の核心は、個人の資質ではなく、二千年以上にわたる専制体制の歴史にあります。

 普通の国であれば、社会の中には自発的な団体、地域組織、職能団体、宗教組織、市民組織などが生まれます。人びとはそこで他人と協力し、ルールを作り、信頼を育て、公共心を身につけていきます。家庭でも国家でもない中間的な場こそが、人間に社会性を教える訓練の場となるのです。

 ところが中国では、歴代の支配者が国家から独立した社会組織の存在を警戒してきました。なぜなら、自発的な組織は、専制権力にとって常に潜在的な脅威となるからです。人びとが横につながり、自分たちでルールを作り、国家から独立した公共空間を持つことは、専制体制にとって望ましいことではありませんでした。

 そのため中国では、社会が自発的に育つ前に、国家がそれを管理し、吸収し、抑え込んできました。国家に管理された組織では、本当の自主性は育ちません。自分たちでルールを作る経験も、他人と対等に協力する経験も、権力から独立した公共空間も育ちにくいのです。

 その結果、中国には「人民」はいても、近代的な意味での「市民社会」は育ちにくかったと言えます。国家に従う人民、家族や身内を大切にする個人はいても、見知らぬ他人と公共空間を共有し、互いにルールを守り、対等な関係の中で社会を作っていく市民は、十分に育ちにくかったのです。

 ここに、中国社会の大きな矛盾があります。一方には、「自分たちは文明の中心である」という強烈な誇りがあります。もう一方には、公共空間におけるマナー、エチケット、他者への配慮が、しばしば驚くほど弱く見える現実があります。高い文明意識を持ちながら、その文明意識を思わず疑いたくなるような振る舞いが、日常の中にも、国際社会の中にも現れるのです。

 その典型が、いわゆる「戦狼外交官」の言動です。戦狼外交は、単なる強硬外交ではありません。そこには二つの要素が重なっています。一つは、「中国は偉大な文明国家である」という強い自己意識です。もう一つは、相手国や国際社会の受け止め方に配慮し、対等な他者として向き合う国際的感覚の弱さです。

 本来、外交官とは、自国の立場を主張しながらも、相手国の国民感情や国際社会の常識を踏まえ、言葉を慎重に選ぶ存在です。外交とは、異なる国々が互いの利害を調整し、衝突を避けながら関係を維持するための高度な国際的営みでもあります。そこでは、力だけでなく、節度、配慮、信頼、品位が必要とされます。

 ところが近年の中国外交では、相手を威圧し、侮辱し、挑発するような発言がしばしば見られました。これが国際的な反感を招いたのは、単に言葉が強かったからではありません。その背後に、「自分たちは大国であり、文明の中心であり、相手はそれに従うべきだ」という高飛車な序列意識が透けて見えたからです。

 つまり戦狼外交には、中国の高い文明意識が一つの背景として存在しています。自分たちは長い歴史を持つ偉大な文明国家であり、西洋や日本などから説教される立場にはない。むしろ中国を批判する側こそ、中国の復興を妨げようとする不当な存在である。こうした意識が強まると、外交は対話ではなく、相手を黙らせるための威圧的な言葉になりやすくなります。

 しかし、それだけではありません。戦狼外交を生むもう一つの背景には、社会性、あるいは国際的公共性に対する意識不足があります。自分の主張を通すことばかりを重視し、相手がどう受け止めるか、周囲の国々がどう感じるか、国際社会全体にどのような印象を与えるかという感覚が弱いのです。これは、国内社会において見知らぬ他人と公共空間を共有する感覚が育ちにくかったことと、深いところでつながっているのです。

 国内の駅や役所の窓口で見られる横柄な態度と、国際社会で見られる攻撃的な外交姿勢は、一見すると別の問題のように見えます。しかし、その根には共通するものがあります。それは、他者と対等に向き合い、相手の立場や感情を考慮しながら関係を築くという社会的訓練の不足です。

 国内ではそれが、公共空間におけるマナーや他者への配慮の弱さとして現れます。国際社会ではそれが、戦狼外交のような威圧的で高飛車な対外姿勢として現れます。そして、その上に「自分たちは文明の中心である」という強烈な自己意識が重なることで、相手を見下し、批判を受け入れず、反発を招いてもなお強硬な態度を取り続ける外交スタイルが生まれるのです。

 これは単なるマナーの問題でも、単なる外交技術の問題でもありません。中国がなぜ民主化しにくいのか、なぜ自由な市民社会が育ちにくいのか、なぜ国家が常に社会の上に立とうとするのかという問題とも深くつながっています。

 民主主義とは、単に選挙を行う制度ではありません。人びとが自発的に結びつき、互いに信頼し、権力を監視し、公共の問題を自分たちで考える社会的基盤があって、初めて機能するものです。その基盤が弱いままでは、民主制度を移植しても、たちまち混乱するか、再び強い権力による秩序へと回帰してしまいます。

 中国を理解するには、共産党だけを見ていては足りません。経済成長だけを見ても足りません。反欧米感情、反日感情、戦狼外交官の発言だけを見ても足りません。見るべきものは、中国社会の深層にある「社会なき文明」という構造です。

 中国は、巨大な文明を築きながら、国家と個人のあいだに自由な社会を十分に育ててこなかった国です。そこに、中国の強さも、弱さも、そして民主化の困難さもあります。

 この問題については、拙著『中国が民主国家になれない本当の理由 ~社会を持たない巨大文明の宿命~』の中で、中国社会の構造、中国政治の特質、そしてそれらが形成されてきた歴史的経緯を、より詳しく分析しています。

 高い文明意識と社会性の欠如。この相矛盾する二つの性格を同時に見なければ、中国という巨大文明の本質は見えてこないのです。

いいなと思ったら応援しよう!