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【読了】 #92 『けんちゃん』

『けんちゃん』

著:こだま


けんちゃんを読み終えたあと、不思議なくらい静かな気持ちが残った。感動した、という言葉よりも、「生活を少し見直したくなる」という感覚に近い。

物語の中心にいるのは、タイトルにもなっているけんちゃん。そしてもう一人、物語を支える存在として描かれる多田野先生だ。読み始めた当初、正直なところ多田野先生には強い印象を持たなかった。障害のある姉を持つ背景があり、その流れで障害者の通う学校の臨時教師になる。けれど彼女自身はどこか人生に手応えを持てず、SNSに愚痴や鬱屈した感情を書き込んでいる。

その姿は妙にリアルだった。
特別不幸なわけでもない。でも満たされてもいない。仕事にも生活にも決定的な意味を見出せず、とりあえず言葉をSNSに流してしまう。誰かに届くわけでもなく、自分の存在確認のように更新を続ける。その温度感が、あまりにも現代的だった。

だからこそ、物語が進むにつれてSNSの描写が減っていくことに、最初はほとんど気づかなかった。
けんちゃんとの関わり、学校での出来事、予想外に起こる事件。日々は決して穏やかではなく、むしろ大変で、感情を揺さぶられる場面の連続だ。それでも読みながら、物語の重心が少しずつ変わっていくのを感じる。

そして終盤、ふとSNSの存在が思い出されたとき、はっとした。
ああ、この人、更新しなくなっていたんだ、と。

充実しているからSNSを書かない。
そんな単純な話ではないかもしれない。でも少なくとも、多田野先生にとって「外に吐き出さなければ耐えられない時間」は減っていたのだと思う。けんちゃんとの生活や教師としての仕事は、決して理想的でも楽でもない。それでも、自分の時間をちゃんと使っている実感があったのだろう。

人は本当に忙しくなると、あるいは誰かと真剣に関わり始めると、自分について語る時間が減る。SNSに書く言葉がなくなるのではなく、書かなくても成立してしまう生活になる。

『けんちゃん』は、障害や教育をテーマにした物語でありながら、それ以上に「誰かと関わることで人生の輪郭が変わっていく瞬間」を描いている作品だったと思う。救う側と救われる側がはっきり分かれているわけではなく、むしろ関わることで双方が少しずつ変化していく。その関係の対等さが、とても誠実だった。

けんちゃんは特別な存在として描かれない。
だからこそ、彼との時間が多田野先生の生活を確実に変えていく過程が自然に伝わってくる。

読み終えたあと、自分のSNSを少しだけ見返した。
何かを書き続けているときほど、実は生活が空回りしていることもあるのかもしれない。逆に、毎日がちゃんと進んでいるとき、人は記録することを忘れる。

この物語のいちばん好きなところは、人生が劇的に好転したとは書かない点だ。問題は残るし、困難も消えない。それでも、多田野先生は以前とは違う時間の中にいる。

SNSを更新しなくなったこと。
それが、この物語でいちばん静かで、いちばん大きな変化だった。

『けんちゃん』は、誰かを変える物語ではない。
誰かと過ごすことで、自分の生き方が少しだけ現実に根づいていく、その過程を描いた物語だった。

気づけば、言葉にしなくてもいい一日が増えている。
たぶんそれが、生活が前に進んでいるということなのだと思う。

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