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【読了】 #135 『すべてがFになる』

『すべてがFになる』

著:森 博嗣


読み終わってまず残ったのは、解けた爽快感ではなく、ひんやりとした余白だった。

ミステリーなのだから、最後には謎が解ける。
密室の仕組みも、事件の輪郭も、タイトルの意味も、きちんと説明される。

それなのに、すべてがわかった気がしない。
むしろ、わかったはずなのに、何かだけが手元に残らない。

その感覚が、この小説のいちばん美しいところだった。

孤島の研究所。閉ざされた部屋。
天才科学者。コンピュータ。
数字。記号。論理。

並べると、かなり硬質な要素ばかり。

でも読んでいて感じたのは、冷たい機械の話ではなく、むしろ人間の輪郭がどんどん曖昧になっていく怖さだった。

この小説では、人が人として掴めない。

言葉を交わしているのに、届いていない。
同じ場所にいるのに、同じ世界を見ていない。
理解しようとすればするほど、相手が遠くなる。

特に真賀田四季という存在は、最後までこちら側に来てくれない。

天才、という言葉は便利だけれど、彼女に対して使うと少し足りない気がする。

頭が良い人、ではない。
理解の速度が違う人、でもない。
そもそも世界の切り取り方が違う人。

彼女の前では、こちらが当然だと思っている倫理や感情や親しさが、急に仮のルールに見えてくる。

人はこう感じるもの。
人はこう悲しむもの。
人はこう愛するもの。

そういう常識が、静かに床から抜かれていく。

真賀田四季は、怪物として描かれているわけではなく、むしろ逆で、あまりにも澄んでいる。

澄みすぎていて、こちらの濁りが映らない。

感情を持っていないのではなく、感情というものを別の形式で処理しているように見える。その距離感が、不気味で、少し美しい。

犀川先生と萌絵の関係も良かった。

犀川先生は、事件を熱血で追いかける探偵ではない。むしろ、考えることそのものに身を置いている人だ。

すぐに意味を決めない。わかったふりをしない。
違和感を違和感のまま持っておく。答えに向かって一直線に走るのではなく、問いの周囲をゆっくり歩く。

算数を教えている身としては、この感じにかなり惹かれた。

答えはひとつでも、そこに至る道はひとつではない。
そして時々、答えそのものよりも、どのように考えたかの方がずっと美しいことがある。

一方で萌絵は、犀川先生よりもずっと生々しい。

好奇心があり、感情があり、危うさがある。犀川先生の思考が静かな線だとしたら、萌絵の視線は少し揺れる光のようだった。

二人がいることで、この物語は完全に冷たい記号の世界にはならない。

論理の中に、ちゃんと人の体温が残っている。ただ、その体温があるからこそ、真賀田四季の冷たさが際立つ。

密室ミステリでありながら、閉じ込められているのは部屋だけではないのだと思った。

研究所も閉じている。部屋も閉じている。
言葉も閉じている。心も閉じている。

それぞれが、別々の密室の中にいる。物理的な密室は解ける。

でも、人間という密室は最後まで解けない。

ミステリーは本来、謎が解けることで快感が生まれる。でもこの作品は、謎が解けたあとに、解けないものだけが静かに残る。

事件の構造はわかる。

でも、真賀田四季の孤独はわからない。彼女の自由はわからない。
彼女にとっての幸福も、愛も、死も、最後までこちらの言葉には収まらない。

その収まらなさが、読後にずっと響く。タイトルの『すべてがFになる』も、読み終わると不思議な強度を持つ。

Fという一文字が、ただの記号ではなくなる。

意味を持つ前の文字。意味を持ちすぎた暗号。
すべてを閉じる鍵。すべてを開いてしまう合図。

数字やアルファベットは、本来とても無機質なもののはずだ。

でも物語の中で適切な場所に置かれると、急に人間よりも人間らしい顔をする。Fという一文字が、こんなに冷たく、こんなに色気を持つのかと思った。

この作品のすごさは、理屈でできているのに、最後には理屈では割り切れないところに連れていくことだと思う。

論理は美しい。でも、論理だけでは人間を説明できない。

感情は曖昧だ。でも、感情だけでも人間を説明できない。

そのどちらにも寄り切らない場所に、この小説は立っている。

読み終わったあと、しばらく頭の中が白くなった。怖いものを見たというより、美しく整理された部屋に入って、そこに人間の気配だけが残っていたような感覚だった。

整っているのに、不穏。
静かなのに、ざわつく。
説明されたのに、まだわからない。

『すべてがFになる』は、天才を理解する小説ではなかった。
理解できないものを、理解できないまま見つめる小説だった。
すべてがFになったあとも、問いだけが残る。

その問いの冷たさが、妙に忘れられない。

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