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【読了】 #134 『ミシンは触らないの』

『ミシンは触らないの』

著:中前 結花


人から言われてうれしかった言葉たちを集めたエッセイ。

まず、そのテーマがとても素敵だと思った。

人生は、大きな出来事だけでできているわけではない。
誰かに言われた一言。ふとした会話。
その時は何気なく受け取ったのに、なぜかずっと自分の中に残っている言葉。

そういう小さな言葉たちが、人の輪郭を少しずつ作っているのだと思う。
言葉を集めることは、人生を集めることに近いのかもしれない。

名言集に載るような立派な言葉ばかりではなく、家族や友人や、人生の途中で出会った人たちからもらった、もっと生活に近い言葉たち。

言った人は忘れているかもしれない。
言われた側も、毎日思い出しているわけではない。

それでも、ふとした時に胸の奥から出てくる。自分を支えてくれることもあるし、少し痛むこともある。

この本を読んでいて、子どもの頃のエピソードや、誰かから聞いた話を、よくここまで覚えているなと何度も思った。

その時の出来事だけではなく、その場の空気や、気持ちの揺れまで細かく残っている。

言葉も、出来事も、人の優しさも、自分のさみしさも。
子どもの頃の話が多いのも印象的だった。

でも、ただ懐かしく振り返っているわけではない。

その時の自分の心細さや、うれしさや、恥ずかしさを、大人になった今の視点でもう一度見つめ直している感じがある。

楽しかったことだけではなく、さみしかったことや、つらかったことも、同じように大事にしている。

嫌だった記憶を無理に美談にしているわけではない。
傷ついたことをなかったことにもしていない。

そして、人生の各所でお笑い芸人からインスピレーションを受けているところも面白かった。

お笑いって、ただ笑わせるものではなくて、生き方の角度を少し変えてくれるものでもあるのだと思う。

しんどい出来事。
うまく言葉にできない感情。
真正面から見つめるには少し重すぎるも。

お笑いの言葉やリズムが、少しだけ逃げ道になることがある。

深刻なことを深刻なまま書き切るのではなく、どこかに笑いの余白を残している。それは軽くしているのではない。

「わたしは、わたしに生まれてきて本当に良かった」

この言葉を書ける人のエッセイなのだと思うと、正直、眩しかった。

優しい文章なのに、優しいからこそ少し胸に刺さることがある。
自分にないものを持っている人の文章を読む時、憧れとしんどさが同時に来る。

いいな、と思う。
でも、少し遠い。

自分の人生を、自分のものとして抱きしめ直せる人。
自分に生まれてきてよかったと、言葉にできる人。

その強さが、少し羨ましい。

中前さんがずっと明るく、傷つかずに生きてきた人ということではない。むしろこの本には、さみしさも、つらさも、痛みもちゃんとある。

それでも、その全部を今の自分の手で包み直そうとしている。

特にお父さんの存在が印象深い。

前作が母へ向いた一冊だったとするなら、今回は父へ向いた一冊でもあったように感じた。

お父さんは押しつけがましくなく、でもちゃんとそこにいる。
言葉で全部を説明するタイプの愛情ではなく、日々のふるまいや、ふとした一言の中に残る愛情。

家族の話を書く時、近すぎるぶん綺麗にまとめすぎてしまうこともあると思う。でもこの本のお父さんの描かれ方には、生活の中でしか出せない温度があった。

父と母と娘。

その三人で過ごした時間が、あとから振り返った時に、かけがえのないものとして立ち上がってくる。

家族にも、たしかに戻れない時間がある。

もう二度と同じ形ではそこに帰れないからこそ、書いて残すことには意味があるのだと思った。

あと、もらったラブレターの話も忘れられない。あれは本当に文学だった。

恋愛としてうまくいくかどうかとは別に、誰かを思って言葉を書くこと自体に、こんなにも濃い時間があるのかと思った。

その人とは合わなかったとしても、その言葉を書こうと思った相手の方は、きっと素敵な人だったのだろう。

できないことを克服する本ではない。苦手なものを、無理に好きにならなくてもいい。

触らないものは、触らないままでいい。

でもその代わり、自分の中に残っている言葉には、もう一度触れてみる。

うれしかった言葉。忘れられない言葉。
その時は受け取れなかったけれど、あとから意味がわかってくる言葉。

人は、そういう言葉に支えられながら生きているのかもしれない。

読後、自分にも残っている言葉を思い出したくなった。

誰かに言われてうれしかったこと。
何気ない一言なのに、なぜかずっと覚えていること。
そして、自分が誰かに渡してしまったかもしれない言葉のこと。

言葉は怖い。でも、言葉はちゃんと人を助ける。

ミシンには触らなくてもいい。
でも、言葉で縫い直せるものは、きっとある。


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