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さようなら、大好きな北山アナ・前編

「好きなアナウンサーは?」

きょう3月31日付で、わたしの先輩であり、『ガッツナイター』で長年実況を続けてきた北山靖アナウンサーが退職しました。いまから28年前、普通列車を乗り継いで東京から岐阜に帰る際、携帯ラジオで聴いていた『ガッツナイター 中日対巨人』。その実況を担当していたのが北山さんでした。「審判、飛び跳ねるようなジャッジ! 清原、見逃し三振!」。目に浮かぶとはこのことか。投手が投じたボールの素晴らしさを、審判の動きで言い表す表現力。当時、わたしはアナウンサー志望の大学生でした。それ以降、採用面接での「好きなアナウンサーは?」という問いに「東海ラジオの北山靖アナウンサーです」と答えるようになりました。

「好きなアナウンサー」の後輩になる

縁があってわたしはその北山さんの後輩となり、背中を追いかける立場になりました。22歳の私。36歳の北山さん。わたしがナゴヤ球場の二軍戦で実況練習をするときには、北山さんは休日でも見にきてくれるようになりました。わたしは学生時代に「アナウンス研究会」などに所属していたわけではありません。下手でした。めちゃくちゃ下手。でも、北山さんはああだこうだということは一切ありませんでした。細かいことを言うこともありません。「○対○、○○がリード、投手は○○、打者は○○。投げました。打ちました。サードゴロ。アウト。とりあえずこれだけ繰り返してやっていけばいい。途中に余計なことを言おうとしなくていい。そのうち言えるようになる。基本をたたき込もう」。そしてもう一点。「大澤にはスケールの大きいアナウンサーになってほしい。そのためにも大きな声で3時間、しゃべり続けることができる体力をつけてほしい。声の大きさに優る魅力はない」でした。試合前、出前の「鮭弁当」を何度もごちそうになりました。ナゴヤ球場で一軍戦が行われていた時から人気のメニュー。一緒に食べた鮭弁当の記憶が薄れることはありません。おいしかった。怒られた記憶もありません。わたしのゆっくりゆっくりの成長を、いつも近くで見守ってくれた先生でした。

番組での共演

わたしの入社2年目、1999年。ドラゴンズ星野仙一監督の胴上げを伝える北山さんの声が、神宮球場に響きました。「天国の扶沙子夫人も喜んでいるでしょう!」というフレーズが耳に残っています。そのオフ、ドラゴンズ応援番組「ドラゴンズスペシャル No.1 ジョッキー」という番組に、北山さん、佐藤友香アナウンサーのコンビに、わたしが加わることになりました。北山さんはおそらく「もうこの後は大澤に任せよう」と思っていたのでしょう。一緒に番組に出演することで、見て学びなさいという意味を込めた起用だったはずです。

「天才」は生きづらい?

わたしから見れば「北山靖=天才」です。表現力、語彙力、勉強量、わたしの及ぶところではありません。でも「天才」の立ち居振る舞いには、周りはついていけなかったり、ちょっかいをかけたりするものです。サラリーマン的生き方は、天才には難しいのです。もっともわたしが驚いたのは「ドラゴンズスペシャル No.1 ジョッキー」の生放送に来なかったことです。当時、SNSがあればちょっと話題になったでしょう。突然、生放送中に「乱入」する形になり、わたしも佐藤さんもゲストの川又米利さんも戸惑うしかありませんでした。結局、ディレクターに羽交い絞めにされてスタジオの外に連れ出されました。そういった行為が積み重なり、なんとなく「扱いづらいヤツ」という評価になっていきました。「どうしても野球の神髄を突き詰めたい」という思いから、球場での選手への取材も細かい話で、さらにそれが長くなりがち。選手や関係者から「あの人はちょっと…」という評判になっていきました。「天才」が生きづらい世の中になり、ひとりでぽつんとしていたり、会社内でどこにいるかわからないような存在になってしまいました。それでも実況の日には北山さんが、ナゴヤドームの空いているスペースで、かなりの声量で発声練習をすることは変わりませんでした。アトピー性皮膚炎でいつも肌が荒れていて、ひとり大きな声で発声練習をする北山さんを馬鹿にするようなことをわたしに言ってきた、他局のアナウンサーがいました。許せなかった。言い返しても良かったですが、「お前に何がわかるんだ」という思いを抱えたまま、無視してその場を離れました。

思いがあふれて長くなりそうです。

後日、後編をアップします。

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