『翔太と猫のインサイトの夏休み』を読んだら人権標語が『一九八四年』に見えてきた
オクテイヴィア・E・バトラーの『キンドレッド』は、現代の黒人女性デイナが南北戦争以前のアメリカ南部にタイムスリップしてしまう社会派SFなのですが、当時は奴隷制があったから自立した自由な黒人などいようはずもなく、リアルこの時代で人権なくてめちゃめちゃ大変な目に遭うのです!デイナは現地で白人のルーファス命を救ったことにより好意を持たれて、以降ルーファスの手助けを得てこの辛く厳しい世界でなんとか生存していくのですが、自分に好意的なルーファスにさえ、「黒人にも人権がある」ということを納得してもらうのにすっごく苦労する……というか最後まで納得してもらえないんですね。デイナに自由を与える引き換えに対価を求めるルーファス。デイナはルーファスに「自由は取引には使えない。自由は、自分が最初から持っていて保障されるはずの権利だ」と主張しますが、ルーファスは「なんで?そんなわけないじゃん。というか今既に自由じゃないし」と全然ピンときていない様子。
私はこの場面、すごく印象に残ってました。「人権」って今、ワイルドカードみたいに使われてますけど、人権には実は根拠がない。演繹的に「人権はなぜ当然あるべきものなのか」を説明できない。人権がなかった時代の人に、「人権がある」というのを納得させるのは無理!!!
というモヤモヤを抱えて生きていたので、『翔太と猫のインサイトの夏休み』にそれが明言されていて非常にすっきりしました。
「ぼくらが今持っているような倫理性を、ぼくらがいま持っていることには、なんの根拠もないんだ。他の可能性はいくらだってあったさ。でもそれはみんな、いまのぼくらにとっては、不道徳かまたは不適切なんだ」
「ぼくらの側が正しいってことと、ぼくらの側が多数派で、だから勢力を持っているってこととは、ほんとうのところ、究極的には区別できないことなんだ」
「『勝てば官軍』ってことのほんとうの意味はね、勝ったから官軍になったってことが完璧に忘れ去られて、その勝利をみんなが心から喜んでくれるようになるってことなんだ。それが『勝つ』ってことのほんとうの意味さ。つまり、それが勝ったってこと自体が忘れ去られなくちゃならないんだよ。たとえばね。どんな人にも人権というものがあるって言われている。これは別にどんな根拠もない虚構みたいなものなんだけど、いま先進国でこれを疑う人は誰もいない。それはもう自明なことになったんだ。(略)。ぼくらは人権の存在を信じているわけだけど、もう誰も自分はそれを信じているなんて言わない。こと改めて、それを信じているなんて言わなくちゃならない文脈は、もう存在しなくなったんだ。つまり、人権概念は勝利したのさ。ぼくらはその勝利した世界の中に住んでいるから、その勝利をいいことだと感じる。そして、まさに誰もがそう感じざるをえないってことこそが、それが完璧に勝利したってことの意味なんだよ」
そ、そうか……。
そうだよね。お父さんうすうすそうなんじゃないかと思ってたけど……。
人権とは、全ての人が生まれながらに持っている
「人間らしく生きるための権利」です
こういうの、公民館の壁とかに大きく書かれていたりします。
ひょっとして、「人権が勝利を収めていない世界(南北戦争以前のアメリカ南部もそうですが)」から見たらこれって
戦争は平和である。
自由は屈従である。
無知は力である。
と何も変わらないのかもしれない。
みんな大好き『一九八四年』の例のスローガンですね。
そう思って世界人権宣言を読んだらなんかこわくなってきた。
私達はみんな、生まれながらに人権スローガンに洗脳されているのです。
人間の世界の倫理観・価値観というのは、時代によって変化していきます。ですが私は今まで、なんとなく「未成熟な状態から正しい方に推移していく」というイメージを持っていました。だって、封建制より民主主義のほうが「正しい」ですよね(by2026年の日本に生きる人間)。でもその正しさには実は何の根拠もなく、単純化して言うと「大勢に支持されているから」で正しさが決まっているとしたら。
うーん。それでも案外、困ることはなくて、その考え方のほうが救いがあるなぁと思ったりします。
某巨大対戦型SNSでは人々が永遠に喧嘩をしていますが、私はなんで喧嘩をするのか謎だったのです。
真実というものはSNSとは関係のないところにあるものだから、SNSで議論をしても真実は揺るがない、という世界観だったんですね。
でもこの『勝てば官軍』という考え方によると、主義主張をSNSで声高に叫ぶことによって、たとえ根拠を示さなくとも、「そうだそうだ!」という人が増えれば、増え続ければ、今は不利な立場にある主張でもいつかは覇権を握って「真実」や「正義」になれるかもってことですよね。
人の力で世界の在り方を変えられるってことで、それはとっても夢のある話に思えます。
なんか陰謀論を応援しているみたいになってきましたが。陰謀論で言えば、地球平面説とか物理的な事実は無理かもですが、たとえば反出生主義がマジョリティになる世界っていうのは充分、頭の中では考えられますよね。
どんな主張も「悪」というわけではなく、時代や場合によってはそれが「正しい」となりうる可能性もあると考えて、そして自分の正義も実は根拠のないものかもしれないということを踏まえて、人の意見に対して反対から入らず、レスバではなく建設的な、お互いの物の見方の着地点を探る話し合いをするのって、今の時代大切なんじゃないかと思うんですよね。
先日観たホラー映画『NEW GROUP』には、主人公の愛ちゃんとピエール瀧さん演じる学校の校長との間にこんなやりとりがあります。
(劇場で一回しか観ていないので細部違うかもですが)
愛「これが正しい集団なんですか?」
校長「勝っていることを集団と呼ぶんです」
あ、この映画『翔太と猫のインサイトの夏休み』の続きだった。
余談ですが、ある程度本とか映画とかをインプットしていくと、このように読んだ本の続きがいろんなところに現れる現象が起きてきて、「世界が私にこれについて考えろと言っている……!」となってしまうのですが、これって統合失調症の症状のひとつである関係妄想っぽさありますよね。
『翔太と猫のインサイトの夏休み』は他にも、「あの人はいい人だ、と言うとき、人は自分の欲望を満たして自分を快適にしてくれる人をそう言ってる場合が多い」とか、意志と欲望の話、「意志は意志したことの実現によってしか満たされないが、欲望は精神的・肉体的なひとつの状態」「自分の欲望を誤認することはあっても、自分の意志を誤認することはない」などの話から中動態の話につながっていくところとかが面白かったです!
