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◆読書日記.《ハロルド・ジョセフ・ラスキ『近代国家における自由』》

※本稿は某SNSに2021年2月8日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

ハロルド・ジョセフ・ラスキ『近代国家における自由』読了。


 著者は20世紀前半にイギリスの労働党の幹部であった政治学者で、アメリカ、カナダ、イギリス等で教鞭も取っていたと言われている学者である。

 本書の「自由」とは「国家の自由」ではなく「国家の中に所属せざるを得ない市民の自由」を意味している。

 人間は、生まれる国も最初に身につける言語や文化も、あらかじめ選択する事はできない。また、簡単に国を捨てる事も出来なければ、手軽にライフスタイルを変える事もできない。

 だからこそ、その所属している国の中ではせめて、最低限度の「個人の自由」が保証されなければ、人は幸福を確保する事が出来ない。

 国民は、国(政府機関)のためにあるのではない。その逆で、国こそが国民に奉仕するためにあらねばならない。
 でなければ、自分の生活の中で幸福を確保できる人間はごく限られてしまう。

 何故ならば――これがラスキ最大のテーゼなのだが――「統制されぬ国家は常に自由の宿敵となるから」である。

 では何故「統制されぬ国家は常に自由の宿敵となる」のか。
 この理由については本書の文章じっくりと引用して説明しよう。

 無制限な政治権力を所有する一団の人々があるならば、支配を受ける人々は決して自由ではありえないということである。無拘束な権力が必ず権力者を損なうとは歴史の一致した結論である。彼らは、おのれの福祉の基準を他人にまでも押し付けようとする誘惑に常に曝され、ついには、おのれの権力を維持し継続することによってのみ社会の福祉が保たれると考えるようになる。自由は常に政治権力の制限を要求する。

ハロルド・ジョセフ・ラスキ『近代国家における自由』より

 統制されない権力は、常に権力拡大への誘惑に曝されている。
 だから、無拘束な国家権力というものは、簡単に自らの権力範囲を拡大して自らの利益を追求し、代わりに被支配者らの自由を制限していってしまう事となる。
 これは過去、君主制、独裁制、寡頭制など幾らでも事例を挙げる事のできる事実である。
 だから、国民は権力を与えた政府を常に監視する必要があるのだ。

 民主主義の場合、国民主権の原則があるという事は、政府機関というものは主権者である国民が、自らの持っている権力を一時的に政府に賦与し、政治家を雇い、執行させているにすぎない。

 一時的にとは言え、政府機関は権力を与えられているのだから、国民は国(権力を与えられた政府機関)がこれを濫用しないように警戒しなければならない。
 警戒しないと「統制されぬ国家は常に自由の宿敵となる」の法則に従い、政府は自らの権益の拡大を計るようになるだろう。

 ネット上の議論を見ていると「野党は、与党の批判ばかり」という意見をしばしば耳にするが、民主主義の原理原則を理解しないと、この手の意見が出て来るようになるわけだ。
 野党が「批判ばかり」なのは、一時的に国家権力を賦与されている与党が権力を濫用しないかどうか監視するのが、彼らの仕事だからだという正当な理由があるのだ。疑ってもかかるのは当然なのである。

 批判的吟味にかけなければ、いつどこで、自らの支持基盤にのみに偏って有利な法案が採用されてしまうか、自らの権力に都合の良い法案が採択されてしまうか、分からないからだ。

 また、その危険というものは、民主主義であっても十分起こりうる事だからとも言える。

 本書にも出てくるが、民主政体にありながらも、一部の国民を弾圧・抑圧したケースなどというものは幾らでも事例があるからだ。
 例えば、アメリカで吹き荒れた「レッド・パージ」などもその内の一つだった。
 ナチス・ドイツが政権を獲得したのも、当時の西洋では先進的な国民主権の民主的憲法であったヴァイマール憲法下での事だった。

 国の憲法が民主主義的であり、民主政体を取っている国家であろうと、施行されている法律の条文が十分に民主主義的なものであっても、それだけで民主主義は実行されないのだ。

 国民が、政府をしっかりと監視し、厳しく要求を訴え、批判的吟味にかける事で、やっと民主主義というものは保たれるのある。

 政治への無関心、不平不満を抑え沈黙を守る、声を上げない、政府を批判しない。国民がそのように政治にまるで訴えかけなければ、政府は自らの行いに無根拠な自信を持ち、国民一人一人の不平不満に対して、より一層耳を傾けなくなる。

 彼ら(※市民)の無気力は、権力者の行動に誤った自信の光彩をそえ、沈黙は同意と取り違えられる。多分、これこそヒトラー主義の最も重要な教訓であろう。徹底的に批判されない政府は、政府の行動によって人民の間に引き起こされる感情を決して悟ることがない。

ハロルド・ジョセフ・ラスキ『近代国家における自由』より

 政府の行いに対して沈黙を守る事は「中庸」なのでは全くない。
 国民の沈黙は、歴史上において常に、国家権力を力強く後押しする力となってきたのである。この原則は、今でも変わりない。

 また、国家制度や政府機関を批判していけないのならば、例えば「現在の法律には欠点があって改善しなければ私たち国民生活にしばしば支障がある」といったような議論はできなくなってしまう。

 そうなると更には古い伝統的な考え方が過剰に守られ、時代に即した新しいルールに改定する事がますます困難になってしまうのである。

◆◆◆

 民主主義の考え方というのは、ラスキからすれば、国民の自由を保障するために考え出されたものだと捉えているようだ。
 
 なぜ民主主義が必要かと言えば、それが国の中にいる人々の多くに幸福が行き渡り易い体制であるからと言える。

 何故、自由は保障されなければならないか?
 自由が制限された人間は幸福になり難く、自由が約束された人間は幸福になり易いからだ。
 そして、国民の自由が制限されれば、人々はより自分たちの幸福を得る事が困難になるか、もしくはごく限られた一部の人間にのみ幸福が集中し、多くの人々が幸福から遠ざかってしまうのである。

 故に、民主主義は国民の自由を保障するために機能しなければならない――という事なのである。

 ラスキの民主主義原理論を読んでいると、国家体制というものは基本的には、人間がより幸福に、豊かに暮らすために作られてきて今も存在しているのだなァと改めて感じさせられる。

 逆に言うと君主制や独裁制、寡頭制といった国家政体というものは、限られた人の偏った幸福のための体制であるからこそ否定されねばならないという事となる。

 またそういった少数の人間が多数を強権にて支配しているという体制は、歴史の中では大衆の反感を買う事でかなり頻繁に悲惨な末路を辿る事となった。ブルボン王朝しかり、ロマノフ王朝しかりである。
 そういう歴史的な政治体制の教訓の積み重ねの上に現在の民主主義と言う体制がある。

 では、その民主主義というものは何によって成立するのか?

 幸福を追求するためのあらゆる困難な障害を取り除く事によって、人々が自由と平等とを享受できる条件を整える事にある。
 「人々の幸福」が、大前提なのである。それが人々に平等に行き渡る事が条件。そのための自由なのである。

 ラスキの主張しているこの「自由」というものは――直接的には言ってはいないが――ルーズベルトが提唱した「四つの自由」の事であろう。
・表現・言論の自由
・信教の自由
・欠乏からの自由
・恐怖からの自由
 ――この四つである。

 これらの自由を実現するために、国家が従うべき基準を論じたのが本書というわけである。

 また、ラスキは国家に所属する人間の多くが幸福を掴むためには、自由だけでなく、それとセットで平等も保証される事が不可欠だと主張している。

 自由と平等とは対立的というよりはむしろ補完的なものである。専制の下においては、人々はがいして平等であると言えようが、なおも自由ではないところである種の平等が存しない所では、自由実現の望みは決してありえないというのが歴史の事実であると私は考える。

ハロルド・ジョセフ・ラスキ『近代国家における自由』より

 これと「平和」とがセットで「自由、平等、平和」の民主主義の三幅対が完成する。これが相互に働いて国民の生活を守る事で、我々は幸福追求の障害が取り去られるという考え方だ。

◆◆◆

 民主主義が基本的に「国民主権」であるのは、「国」ではなく「人」が重要だからである。

「国が栄える」のが目的ではない、あくまで「人が幸福になる」のが目的である。こういう基礎の基礎たる原則を、忘れてはならない。

 また、民主主義の基本が「国民主権」にあるのも、この原則によるものである。

 これが本書の重要なテーゼである「統制されない権力は常に自由の宿敵となる」に繋がってくる。

 歴史学では良く言われる事らしいが、特権階級や権力者という者は、自ら喜んで素直にその権力を手放す事はほとんどない。

 だから、特権階級や権力者からしてみれば、自分達の優位な生活レベルや豪奢なライフスタイルに嫉妬する庶民は不愉快に見えるものだし、「平等」を叫ぶ民衆に関しては、自分達が保有している権利を剥奪されていくのではないかと恐れを抱くものである。
 だからこそ権力は、隙あらば民衆を抑圧しようとする。

 自分達の保有する権利を放棄して、自分達より劣っている(と感じている)民衆にわざわざ喜んで分け与えようという権力者は、残念ながら歴史上ほとんど見られないのである。

 彼らの優位性を維持するために、権力者らは自分らに都合の良い法律や組織や人事を組み上げようとする。

 そうする事で、ますます権力は、現在の権力者に集中していってしまい、民衆はますます様々な権利から遠のかざるを得ない。

 そういった歴史上の教訓を踏まえているからこそ、民主主義は「民衆」のほうに「主権」が握られる「国民主権」のスタイルが基本となっているのである。

 但し、実際の権力を実行する政府というものは、一時的とは言えども国民にある「権力」を託している組織である。

 だからこそ、一時的に権力を利用している政府機関というものを、民衆が厳しく監視し、権力を濫用しないかどうかチェックしなければならないのである。
 上にも書いた通り、いくら憲法や法律が民主主義的なものであっても、国家による国民への抑圧や自由の制限といったものはしばしば起こっているし、先進的な民主主義的憲法を誇っていたヴァイマール憲法からもナチス政権という最悪の政府を生み出してしまっているのである。

 民主主義を守るためには、国民が「権力」に警戒の目を向けるべきなのだ。

 日本では、一時的に国民の権力を委託している現政権与党が、権力を濫用してはいないか、彼らの権利を不当に拡大しようとはしていないか……そういった「権力の監視」を行っているのが国会だし、それが野党の役目なのである。

「野党は文句ばかり言う」のは、民主主義では「あたりまえ」の事でしかないのだ。

 ざっと説明してきたような「民主主義の基本的な考え方・原理原則」を考えて、その上で現在の日本をふり返ってみて見れば、いかに我々の周囲でこれらの原則を踏まえていない「なんちゃって民主主義議論」が横行しているかわかるだろう。

 ぼくも本書を読んでいて、所謂「ネトウヨ」と呼ばれる連中がウンザリするほど民主主義的な原則を逸脱したトンデモ議論で政権与党を擁護しているか痛感させられて少々ゲンナリした気分にさせられてしまった。

 いかに日本人が「民主主義」を理解していないかというのが痛感させられる。

 これは日本の学校教育の多くが、民主主義というものを単なる「大学受験用の知識」として通過させてしまった弊害が出ているのではなかろうか。

 本書の内容は、そういった民主主義を逸脱した危険な議論を寄せ付けないための、腰の強いロジックを獲得するために非常に良い教科書となるのではないかと思うのである。

◆◆◆

 以上説明してきたように、本書は非常に基本的、教科書的な「民主主義の原理原則」を論じた内容と言える。ただ、これが非常に面白い。

 日本の教科書がダメだと思うのは「憲法にこういう項目がある」だとか「国政はこういう形で成り立っている」といった「知識」を羅列しているだけのように感じられるところである。

 重要なのは「なぜそういった(民主主義の)考えに至ったのか?」「その決まりがなければどういったデメリットがあるのか?」といった点であり、ぼくが政治の授業で知りたかった点というものは、まさにそこだったのである。

 ラスキのこの本は、そういった民主主義の原理原則を、歴史的な事例から説明してくれる。

 民主主義というものの目的とは「われわれ国民一人一人が幸福を得る仕組み」のためにあるのだ。国家を守るために国民がいるわけではない。国民を守るために、国家がある。できる限り多くの人が最低限度の幸福を掴む事ができる仕組みとして、民主主義があるのである。

 例えば、日本政府は「健康で文化的な最低限度の生活」を、国民一人一人に提供するために、国民から広く税金を集めてそれを分配している。

 国民には勤労の義務があるが、「健康で文化的な最低限度の生活」を国民に補償するのは、政府の「義務」なのである。

 近ごろ政府機関は国民の義務を強調しがちだが、国民に義務があるのは、政府が「国民の生活を守る義務」を遂行する事ができるようにするためでもある。

 障害を負ったり、定年になって働けなくなったりなど、何らかの理由で働く事のできなくなってしまった人たちにも「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されるように、我々は勤労の義務にあたって税金を納めているのである。

「国民の義務」のほうが強調され過ぎると、それ以前の大前提である「健康で文化的な最低限度の生活の保障」の部分が忘れ去られ、「障害を負ったり、定年になって働けなくなったりした人」の事を「お荷物」「生産性がない」「税金ドロボー」等と感じてしまう倒錯的意見が現れるのだ。

 これは逆だ。

 国民全員に「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されるための体制を維持するのが目的で税金を払っているわけで、「税金を払うのが勤労の目的」ではない。「税金を払って国民の義務を果たしている」という事を、単なる「一人前の国民のステータス」のようなものにしてはいけない。

 こういった「民主主義の原理原則」が「単なる知識」になり、中身の意味・内容を理解していないからこそ、こういう勘違いした意見が出る。

 だからこそ「民主主義の原理原則」がこうなったという理由をしっかりと説明しているラスキの本書の内容は、現代日本人こそじっくり読むべきではないかと思うのだ。

 ここに書かれている事例は、若干古いものが多いのだが、――例えば「言論の自由」が保証されなければならない理由は何なのか? それが保証されねばならないと西洋各国に知らしめた歴史的教訓とは何なのか? なぜ「結社の自由」は保証されなければならないのか? それはどこまで許されて、どこまでが許されないのか?
 ――こういった「民主主義の基本的な考え方」に答えられない人は、是非とも本書を熟読する事をお勧めする。


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