見出し画像

くまもと旅。②肥後国一宮 阿蘇神社

阿蘇神社の最寄り駅はJR宮地駅(豊肥本線)。中世以降に国府が置かれていたのではないかとされる二本木遺跡群(西区二本木)はJR熊本駅そばにあり、熊本駅-宮地駅間の距離は約54kmと離れています。

当社が阿蘇の火山を祀るべく創建されたことは明白ですが、そこには中央にはない地方ならではの特殊性がみられます。境内をひと通りみながら紐解いていきましょう。

宮地駅の駅舎にはしめ縄が張られている
北に阿蘇神社(下宮)、南に阿蘇中岳(上宮)が鎮座する神域内の駅なのだ
入口の造りも社殿のようである

宮地駅から阿蘇神社(南鳥居)までは北に約1.2km。緩やかな坂を下っていくと到着します。

鳥居から神殿まで

南鳥居と社号標
肥後一之宮 阿蘇神社
楼門(国指定重要文化財)は嘉永3(1850)年に造営
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、筥崎宮(福岡県福岡市)とともに日本三大楼門の一つに数えられる
楼門を左から
右手に神幸門がみえる
神幸門
嘉永2(1849)年に造営
楼門を右から
左手にあるのは還御門
還御門
造営は神幸門と同じく嘉永2(1849)年
楼門の額

楼門をくぐれば正面に拝殿があります。まずは拝殿と三つある神殿を見ていきます。

境内案内図
拝殿

平成28(2016)年4月16日に起こった熊本地震では楼門と拝殿が全壊、神殿が損壊するなどの重大な被害に見舞われました。同年より災害復旧事業がすすめられ、楼門の復旧や拝殿を再建。さらに透塀の復旧や防災施設の再整備などを行い、残工事が完了したのは令和6(2024)年12月。復旧にいたるまでは約8年8か月と長きにわたる道のりでした。

一の神殿

健磐龍命(たけいわたつのみこと。主祭神)を筆頭に4神を祀る

二の神殿

阿蘇都比咩命(あそつひめのみこと。主祭神の妃)ら女神5神を祀る

三の神殿

一の神殿と二の神殿が並ぶその奥に三の神殿があります。拝殿側からは見えにくいため、外側にまわってみました。

速瓶玉神(はやみかたまのかみ。主祭神の御子)、金凝神(かなこりのかみ)ら2神を祀る

金凝神は金属神と思われますが、主祭神の伯父にあたると伝わることから2代綏靖天皇(すいぜいてんのう)とする説もあります。

三の神殿を別角度から
右手前から一の神殿、二の神殿
左に三の神殿

祭神 健磐龍命について

一の神殿(5神)、二の神殿(5神)、三の神殿(2神)の祭神を合わせた十二神を阿蘇十二明神と呼びます。それぞれの祭神は主祭神(健磐龍命)の家族神です。十二宮のうち三宮の國龍神 (吉見神、彦八、井神)は初代神武天皇の御子であり、十二宮の金凝神は2代綏靖天皇とされ、五宮の彦御子神 (阿蘇惟人。主祭神の孫)の子孫は阿蘇大宮司家となり、九宮の若彦神の子孫は阿蘇神社社家となり、十一宮の速瓶玉神 (國造神。主祭神の子)は初代阿蘇国造に任命されたなど、皇統につながるだけでなく阿蘇神社の祭祀および阿蘇国の政治を一手に引き受けた一族であったことがわかります。

阿蘇神社の創建は社記によると孝霊天皇9(紀元前282)年と伝えられています。富士などの火山を祀る神社は異変があれば朝廷に知らせる役割を担っていたことから、社殿の有無はともかくなんらかの態勢が整えられていたのではないかと考えられます。

いわゆる阿蘇山については古くは『隋書倭国伝』(7世紀初頭)にこう記されています。

阿蘇山という山がある。突然噴火し、その火が天に届かんばかりとなる。人々はこれを異変だとして、そのために祈祷祭祀を行う。如意宝珠という珠がある。その色は青で、大きさは鶏卵ほどもあり、夜には光を発する。倭人は「魚の眼」と言っている。

『倭国伝』講談社学術文庫

仏教文化が華開いた時代と合って如意宝珠も登場しています。色は青で夜に光を発するというのは阿蘇の火口を意味しているのではないでしょうか。中岳の火口をのぞむ湯だまり(神霊池)はエメラルドグリーンの輝きを放つといわれています。また、夜に光を発するというのは火山の噴火活動を想起させるものです。重要なのは『隋書倭国伝』に記される以前から、阿蘇の噴火を鎮めるための祭祀祈祷が行われていたという事実です。

健磐龍命という神名からは「磐」、つまり火山岩に対する磐座信仰がもとになっていて、「磐龍」とは「岩が立つ」「立岩」の意味があるとする説も指摘されています。しかし、ここで気になるのは「立つ→龍」への変容です。

社寺において龍が宝珠をつかんでいるオブジェを見たことがある人も少なくないかと思います。『隋書倭国伝』に如意宝珠の記述がみられる(しかも大きさはつかみやすい鶏卵サイズ)のは果たして偶然でしょうか。

讃岐国一宮 田村神社の龍神
宝珠をダブルでつかんでいる

龍神には水の恵みをもたらす水神としての神格が備わっています。当時の人々は火山神に龍神(=水神)としてのイメージを持っていたのだとしたら……。さりとて火の神と水の神が結びつく姿が想像できません。ひとまず境内に戻って水神の痕跡をたどってみることにします。

阿蘇神社の祭礼は農業にまつわるものが多い
阿蘇神が農耕神でもある一つの証左といえよう

銘水 神の泉

水神の痕跡としては参道横の「神の泉」があげられる
農業に欠かせない豊かな湧き水は阿蘇の山々の恵みでもある
御神水は別の場所にもあった
一の宮町は、むかしより地下水の噴出する「清泉の町」として知られています

阿蘇の山々は地上では噴煙をあげる活火山であると同時に豊富な地下水を蓄え、人々の暮らしに恵みをもたらせてきました。火山神だった健磐龍命は水神(龍神)としての神格を備え、人々が祈りを捧げる農耕神へと変容していったのです。

境内社

境内社はそれほど多くはありません。祭神が十二神いて火山神にして水神、そして農耕神であるという万能な神格からして必要なかったというところでしょうか。

山王・庚申社

山王社(祭神:大国主命)
庚申社(祭神:猿田彦命)
神仏習合時代の社が合祀されたと思われる

一之神陵

健磐龍命の御陵
すぐそばに神池
奥に社殿が見える

池のそばにあったのは北門守社でした。

北門守社

豊磐門戸神、櫛石門神を祀る

二之神陵

二之神陵は先ほどみた「銘水 神の泉」のそばにあります。健磐龍命の妃神の御陵といわれています。

阿蘇都比咩命を祀る

南門守社

豊磐門戸神、櫛磐門戸神を祀る

北門守社と南門守社は横参道の北側と南側にあります。北門守社の向かいには神幸門、南門守社のそばには還御門があり、ともに門を守る神さまです。

横参道が意味するもの

ところで、阿蘇神社の参道は「横参道」という全国的にも珍しい形式をとっています。神社の参道はまっすぐ進めばその先にある社殿にたどり着くのが一般的です。しかしながら、こちらの南鳥居の先には北鳥居があるだけで社殿に向かう楼門は中間地点の左側にあり、この道をまっすぐに進んでも拝殿にたどり着くことはできません。では、なんのためにこの場所に鳥居があるのでしょうか。

ふたたび南鳥居に戻ってきた
境内側からみた南鳥居
阿蘇の山々が見える

もうおわかりでしょう。鳥居は阿蘇の山々に向かって建てられているのです。阿蘇山とは単体の山ではなく、高岳、中岳、根子岳、烏帽子岳、杵島岳からなる阿蘇五岳の総称を意味します。最高峰は高岳(1592m)で、噴火口がある中岳には当社の奥宮である阿蘇山上神社が鎮座しています。

阿蘇五岳を示す大観峰の案内板(南北が逆)
阿蘇神社は左下方にある

横参道の存在は阿蘇神社は下宮にすぎず、神域の中心は中岳にあり、阿蘇の山々が神体山であることを示しています。また、北鳥居の5km先には国造神社があることから、横参道の鳥居は国造神社と阿蘇神社と阿蘇の山々を結んでいるという説もあります。

祭神の速瓶玉神(十一宮)が初代阿蘇国造に任命されたことからも国造神社と阿蘇神社との関係の深さがうかがえます。一般に国造は律令制が進むにつれてその職務を国司にとって代わられ弱体化していったとされていますが、阿蘇国造の阿蘇氏(宇治氏)は大宮司家として政治的権力を手中にし、平安末期には武士化して領主的発展をも遂げました。

同じ肥後国の有力豪族でも、八代市や宇城市のあたりを拠点としていた火君(ひのきみ)の不知火信仰は王権神話に吸収されて日神信仰にとって代わられたのに対し、阿蘇君の火山信仰はその後も朝廷の意に反して強い権力を握り続けたというのは実に対照的です。阿蘇君の発展理由について井上辰雄『火の国』は「(阿蘇君が)内陸的な阿蘇の盆地の開拓に専念し、また祭司的な性格を強固に保持しつづけたことがあげられよう」と指摘しています。

熊本の県民性をあらわす「肥後もっこす」は正義感が強く、曲がったことを嫌う芯の強さを長所とする一方で、頑固で融通がきかないところを短所とする見方もあります。津軽じょっぱり(青森県)や土佐いごっそう(高知県)とともに「日本三大頑固」とも呼ばれているようですね。

これなども『火の国』で指摘されているように阿蘇の開拓に「専念」したり祭司的な性格を「保持しつづけた」りする一意専心の精神性がもたらした気質ではないでしょうか。

宿泊先の窓から見た阿蘇五岳

阿蘇五岳の遠景は涅槃像(釈迦が仰向けに横たわっている姿)に見立てられています。左にある根子岳が頭部、中央の高岳が胸、中岳が腹となり、杵島岳と烏帽子岳が膝のあたりとのこと。山の峰を涅槃像に見立てる例は全国的にも少なからずありますが、ここまでスケールが大きいのも阿蘇ならでは。まさに自然が作り出した絶景といえるでしょう。

[次回、大観峰から阿蘇を見る。③につづく]

いいなと思ったら応援しよう!