饒舌じゃない人の言葉を、私たちは待てているだろうか ーー「コミュ力が高い人」が評価されすぎる社会で
最近、とあるトークイベントに行った。
二人の作家が対談する会だった。
作家同士の対談と聞くと、私はどこかで、もう少し流れるような会話を想像していたのかもしれない。
気の利いた言葉が次々に出る。
話題が自然に広がる。
ところどころで笑いが起きる。
知的で、軽やかで、聞きやすい時間になる。
そういうものを、無意識に期待していた気がする。
けれど実際には、その二人は想像以上に訥々と話していた。
饒舌とは程遠かった。
質問を受けても、すぐには答えない。
少し目線を落とし、考え込み、言葉を探す。
ひとつの言葉が出るまでに、長い間がある。
近頃では珍しいくらいに、沈黙や思念している時間が、そのまま場に置かれていた。
でも、不思議と退屈ではなかった。
観客も、その沈黙を急かさなかった。
誰かが気まずそうに咳払いをするわけでもない。
進行の遅さに苛立つ空気もない。
むしろ、みんなが静かに息を呑むようにして、次の言葉が出てくるのを待っていた。
その時間が、とても良かった。
トークイベントが終わったあと、私は「良い会だった」と思った。
そして同時に、コミュ力とは何なのだろう、と考えた。
あの二人は、いわゆる「コミュ力が高い人」として語られるタイプではなかったかもしれない。
場を軽やかに回すわけではない。
観客を大きく笑わせるわけでもない。
すぐに気の利いた返答をするわけでもない。
言葉が途切れないわけでもない。
でも、コミュ力がないわけではまったくなかった。
むしろ、別の種類のコミュニケーションがそこにはあった。
考えてから話す力。
沈黙を恐れない力。
自分の言葉が出てくるまで待つ力。
相手の言葉を急いで消費しない力。
場全体を、速さではなく深さのほうへ連れていく力。
それもまた、コミュニケーション能力なのだと思った。
私たちはつい、コミュ力を「よく話せる力」や「返しが早い力」や「場を盛り上げる力」として見てしまう。
でも、あの会にあったのは、もっと静かな力だった。
沈黙があっても、関係が切れない。
言葉が少なくても、場が痩せない。
すぐに答えなくても、聞いている人が離れない。
それは、むしろかなり高度なことなのかもしれない。
「コミュ力が高い人」が眩しく見える
「コミュ力が高い人」は、たしかに眩しい。
初対面の人とも自然に話せる。
その場の空気をやわらかくできる。
相手の緊張をほぐせる。
会議でも、飲み会でも、イベントでも、うまく場に入っていける。
気の利いた返しができる。
誰に対しても感じがいい。
相手の話を引き出すのもうまい。
そういう人がいると、場は助かる。
気まずい沈黙が減る。
話が前に進む。
人と人がつながりやすくなる。
仕事も動きやすくなる。
だから、コミュ力が高い人が評価されること自体は、自然なことだと思う。
私自身も、そういう人に助けられたことがある。
場に入れずにいるときに声をかけてもらったり、ぎこちない空気をやわらげてもらったり、言葉に詰まったときにさりげなく拾ってもらったりしたことがある。
そういう人には、やはり力がある。
ただ、その力があまりにも強く評価されすぎると、別の問題が出てくる。
話せる人が優れている。
明るい人が社会性がある。
すぐに打ち解けられる人が魅力的。
場を盛り上げられる人が価値のある人。
そんなふうに見えてしまう。
逆に、物静かな人、言葉が遅い人、初対面で硬くなる人、すぐに自分を開けない人は、どこか劣っているように見られてしまう。
本当にそうなのだろうか。
人とすぐに話せることは、たしかに能力だ。
でも、すぐに話せないことは、能力がないことなのだろうか。
言葉が遅い人は、何も考えていないのだろうか。
沈黙する人は、場に参加していないのだろうか。
おとなしい人は、人と関わる力が低いのだろうか。
私は、そうは思えない。
おとなしい人の中にも、言葉はある
私はもともと、おとなしい、物静かなタイプだと思う。
若い頃は、初対面の場や、雑談の多い空間があまり得意ではなかった。
何を話せばいいかわからない。
どこまで踏み込んでいいかわからない。
相手が退屈していないか気になる。
変なことを言ってしまっていないか、あとで何度も考える。
会話の途中で、すぐに言葉が出てこないこともあった。
その場ではうまく言えなかったのに、家に帰ってから「ああ言えばよかった」と思う。
相手の言葉の意味が、あとからじわじわわかる。
自分の感情も、すぐには整理できない。
だから、よく話せる人が羨ましかった。
すぐに返せる人。
会話を止めない人。
初対面でも相手を笑わせられる人。
どんな場でも自然に存在できる人。
そういう人を見ると、自分にはない力を感じた。
でも、歳を重ねるにつれて、話すことが前ほど苦ではなくなってきた。
経験が増えたからかもしれない。
人の反応に慣れてきたからかもしれない。
自分が何を話せる人間なのか、少しわかってきたからかもしれない。
今は、以前よりは人と話せる。
仕事上のやり取りも、ある程度できる。
人前で話すことも、まったく無理ではなくなってきた。
自分なりに、コミュ力はついてきているのだと思う。
でも、だからこそ思う。
話せるようになった自分だけを肯定して、話せなかった頃の自分を否定したくはない。
あの頃の自分にも、ちゃんと言葉はあった。
ただ、その場ですぐに出せなかっただけだ。
感じていなかったわけではない。
考えていなかったわけでもない。
人に関心がなかったわけでもない。
むしろ、感じすぎて、考えすぎて、言葉にするまでに時間がかかっていたのかもしれない。
おとなしい人の中にも、言葉はある。
ただ、その言葉が出てくる速度が、社会の求める速度と合わないことがある。
社会は「すぐ話せる人」を信じやすい
今の社会では、すぐに話せる人が信じられやすい。
会議で即座に意見を言える人。
面接で自分をうまく説明できる人。
交流会で自然に名刺交換できる人。
SNSで自分の考えをすぐに発信できる人。
プレゼンで堂々と話せる人。
そういう人は、能力があるように見える。
実際、能力がある場合も多い。
自分の考えを言葉にして、人に伝えられることは大事だ。
仕事でも、創作でも、活動でも、説明する力は必要になる。
ただ、「すぐに話せること」と「深く考えていること」は、必ずしも同じではない。
すぐ話せる人は、すでに言葉の型を持っていることが多い。
相手に伝わる言い方を知っている。
自分をどう見せればいいかを知っている。
場に合わせて、言葉を選ぶことができる。
それは強い。
でも、言葉になるまでに時間がかかる人もいる。
その場では黙っている。
でも、あとで深いことを考えている。
即答はできない。
でも、時間をかけると、その人にしか出せない言葉が出てくる。
会議では発言が少ない。
でも、あとから送られてくる文章には、見落とされていた論点がある。
そういう人もいる。
ただ、社会はその遅さを待つのが苦手だ。
「今、言って」
「その場で答えて」
「端的に説明して」
「わかりやすく話して」
「結論から言って」
そう求められる。
もちろん、必要な場面もある。
仕事には速度も必要だ。
いつまでも沈黙していたら、場が困ることもある。
でも、あまりにも速さばかりが求められると、時間をかけて出てくる言葉は、存在しないものにされてしまう。
饒舌さとコミュ力は同じではない
「コミュ力が高い」と聞くと、多くの人は饒舌な人を思い浮かべるかもしれない。
話題が豊富。
返しが早い。
笑いを取れる。
沈黙を作らない。
相手を飽きさせない。
でも、饒舌さはコミュ力の一部であって、全部ではない。
むしろ、饒舌さによって隠れるものもある。
よく話す人が、必ずしも相手を見ているとは限らない。
場を盛り上げているようで、自分のペースに巻き込んでいることもある。
沈黙を埋めるのがうまい人が、沈黙の中にあるものを待てるとは限らない。
会話が途切れない人が、本当に深く聞いているとは限らない。
もちろん、饒舌な人を悪く言いたいわけではない。
よく話せることには、才能も努力もある。
言葉で人を楽しませられる人は素晴らしい。
その場を明るくできる人の存在に、救われることも多い。
ただ、話せることだけを高く見積もりすぎると、別のコミュニケーションが見えなくなる。
聞く力。
待つ力。
黙る力。
相手の言葉が出てくるまで急かさない力。
場の深度を保つ力。
すぐに結論へ持っていかない力。
それらも、コミュニケーション能力だと思う。
トークイベントで見た二人の作家は、饒舌ではなかった。
でも、言葉を雑に扱っていなかった。
自分が本当に言えることを探していた。
相手の言葉を、すぐに消費せずに受け取っていた。
その姿は、かなり誠実なコミュニケーションに見えた。
沈黙を待てる場は、なぜ豊かだったのか
あのトークイベントが良かった理由を考えると、話の内容だけではなかった気がする。
もちろん、話されていた内容も興味深かった。
でも、それ以上に、言葉が出るまでの時間がそのまま許されていたことが印象に残っている。
沈黙が、失敗として扱われていなかった。
普通、トークイベントでは沈黙が怖がられる。
司会者が急いで次の質問を出す。
登壇者が場を持たせようとして笑いを取る。
観客も、少し気まずくなる。
「間」が長すぎると、進行が悪いように見えてしまう。
でも、その会では違った。
沈黙が、思考の時間として存在していた。
言葉が出てこないことが、未熟さではなく、誠実さのように見えた。
観客も、その時間を一緒に持っていた。
これは、かなり珍しいことなのかもしれない。
私たちは普段、沈黙を急いで埋めようとする。
会話が途切れると不安になる。
返事が遅いと、相手が困っているのではないかと思う。
何か言わなければならない気がする。
沈黙を、関係の断絶のように感じてしまう。
でも、沈黙にはいろいろな種類がある。
拒絶の沈黙。
無関心の沈黙。
緊張の沈黙。
疲れの沈黙。
それだけではない。
考える沈黙。
言葉を探す沈黙。
相手の言葉を受け止める沈黙。
簡単に言いたくないからこその沈黙。
まだ自分の中で形になっていないものを、急いで出さない沈黙。
そういう沈黙もある。
その沈黙を待てる場は、言葉を大切にしている場なのだと思う。
「すぐ答える人」が得をする
一方で、社会の多くの場面では、すぐ答える人が得をする。
会議でも、授業でも、面接でも、交流会でも、SNSでも、すぐに反応できる人は強い。
質問されたら、すぐ答える。
意見を求められたら、すぐ話す。
何かを見たら、すぐ感想を出す。
出来事が起きたら、すぐ考察する。
そういう人は、存在感がある。
逆に、考えているうちに話題が流れてしまう人は、置いていかれやすい。
本当は言いたいことがあった。
でも、言葉を探しているあいだに、別の話になった。
もう今さら言えない。
結局、黙ったまま終わる。
そういうことはよくある。
私たちは、会話の中で「速い人」のペースに合わせがちだ。
速い人が話す。
場を動かす。
話題を展開する。
結論を出す。
遅い人は、その流れの中で言葉を失う。
でも、その遅い人の中に、重要な視点があったかもしれない。
その場で誰も言わなかった違和感を持っていたかもしれない。
すぐには言えないけれど、時間をかければ深い言葉になるものを抱えていたかもしれない。
それが聞かれないまま終わってしまう。
これは、個人の問題だけではない。
場の設計の問題でもあると思う。
すぐ話せる人だけが発言できる場は、一見活発に見える。
でも、実は似た速度の人たちだけで回っている可能性がある。
そこでは、遅い言葉が失われている。
SNSは沈黙を許さない
この傾向は、SNSによってさらに強くなっている。
SNSでは、早く反応することが価値になる。
何かが起きたら、すぐに言う。
すぐに立場を示す。
すぐに感想を書く。
すぐに怒る。
すぐに考察する。
すぐに共有する。
遅れて考える人は、話題に乗り遅れる。
一日経ったら、もう古い。
数日経ったら、今さら感が出る。
ゆっくり考えているうちに、別の話題へ流れていく。
その結果、言葉はどんどん速くなる。
速い言葉は強い。
短い言葉は広がりやすい。
わかりやすい結論は反応されやすい。
でも、速い言葉は、ときどき浅い。
まだ考えが熟していない。
感情が整理されていない。
別の角度が見えていない。
自分の中の偏りにも気づいていない。
それでも、速く出した言葉が広がっていく。
一方で、遅い言葉は見えにくい。
時間をかけて考えた文章。
簡単に断定しない言葉。
「まだわからない」と言える言葉。
沈黙を含んだ言葉。
そういうものは、SNSの速度に合いにくい。
だから、SNSではコミュ力の意味も変わる。
発信できること。
反応できること。
自分の立場をすぐに言えること。
見られる場所で言葉を出せること。
それがコミュ力のように見えてくる。
でも、本当にそうなのだろうか。
黙って見ている人は、何も考えていないのだろうか。
すぐに投稿しない人は、意見がないのだろうか。
反応しない人は、社会と関わっていないのだろうか。
そんなことはないと思う。
ただ、SNSの構造上、沈黙している人は存在していないように見えるだけだ。
「話せる人」が場を支配することもある
コミュ力が高い人は、場を助けることがある。
でも同時に、場を支配することもある。
話すのがうまい人は、自然に中心に立つ。
会話の主導権を握る。
空気を作る。
何が面白いか、何が重要かを決める。
誰の言葉を拾い、誰の言葉を流すかも、ある程度決めてしまう。
その人に悪意がなくても、そうなることがある。
よく話す人の周りでは、静かな人の言葉はさらに出にくくなる。
返しの速い人がいると、遅い人は入りづらい。
場のテンポが速くなると、考えてから話す人は取り残される。
これは、どんな場所でも起きる。
会議でも、飲み会でも、トークイベントでも、友人関係でも、SNSでも。
話せる人の力は、見えやすい。
だから、話せる人が場を回す。
でも、話せる人だけで場が回ると、場はだんだんその人の速度に染まる。
すると、別の速度を持つ人が消える。
これは「話せる人が悪い」という話ではない。
むしろ、話せる人ほど、自分の言葉が場を占有していないか、ときどき気づく必要があるのかもしれない。
そして聞く側、場を作る側も、話せる人だけに頼りすぎないことが必要なのだと思う。
「何か意見ありますか」と一瞬だけ聞いて、すぐ次へ進むのではなく、少し待つ。
沈黙を気まずさとして急いで処理しない。
言葉が遅い人に、遅いまま話せる余白を残す。
それだけで、場に出てくるものは変わる気がする。
コミュ力は「人間の価値」ではない
私が一番引っかかるのは、コミュ力がいつのまにか人間の価値のように扱われていることだ。
コミュ力がある人は、社会性がある。
コミュ力がない人は、未熟。
話せる人は魅力的。
話せない人は損をしても仕方ない。
人脈を作れる人は優秀。
人付き合いが苦手な人は、努力不足。
そういう空気がある。
でも、本当はコミュ力は、人間の一部の能力でしかない。
考える力。
観察する力。
作る力。
続ける力。
待つ力。
記録する力。
違和感に気づく力。
人の痛みを想像する力。
言葉になる前のものを抱える力。
そういう力もある。
なのに、社会では見えやすい能力が評価されやすい。
話せる人は見える。
明るい人は見える。
発信する人は見える。
プレゼンできる人は見える。
静かに考える人は、見えにくい。
裏で支える人は、見えにくい。
時間をかけて形にする人は、見えにくい。
見える力が、評価される力になる。
評価される力が、いつのまにか「人として優れていること」のように見えてくる。
そこに、私は少し息苦しさを感じる。
コミュ力がある人は素晴らしい。
でも、コミュ力が目立たない人にも、別の力がある。
それを見失いたくない。
社交的に見える人の中の無理
一方で、社交的に見える人も、必ずしも楽に生きているわけではない。
私の知り合いに、ある経営者がいる。
外から見れば、きっと社交的な人に見える。
人前で話す。
プレゼンをする。
会議に出る。
取引先や顧客やスタッフと話す。
人を説得し、説明し、関係を作る。
経営者という立場上、それを避けることはできない。
でも本人は、本当は人付き合いが好きではない。
人と会うことにかなりエネルギーを使う。
社交的に振る舞うことは、自然な性格というより、仕事のための役割に近い。
鬱病気味で、薬を飲んで気持ちを落ち着かせて、プレゼンや会議に臨むこともある。
その話を聞いたとき、胸がきゅっと締め付けられた。
外から見れば、できる人。
話せる人。
人前に立てる人。
経営者らしく振る舞える人。
でも、その裏には、かなりの無理がある。
人前に出る前に心を整える。
不安を抑える。
身体をなんとか場に連れていく。
自分の内側とは違うモードを作る。
求められる役割を演じる。
それでも、仕事のためにやる。
こういう人は、きっと少なくないと思う。
コミュ力が高いように見える人の中にも、本当は人付き合いが苦手な人がいる。
社交的に見える人の中にも、かなり無理している人がいる。
堂々と話している人の中にも、直前まで不安でいっぱいだった人がいる。
でも、社会はその裏側をあまり見ない。
人前で話せている。
笑顔で対応できている。
場を回せている。
だから、大丈夫だと思われる。
でも、できていることと、大丈夫なことは違う。
ここを見落とすと、コミュ力が高い人にもまた、過剰な負担がかかる。
コミュ力は才能ではなく、労働でもある
仕事の中で求められるコミュ力には、かなり労働の要素がある。
笑顔で挨拶する。
相手の反応を見て話す。
場を和ませる。
不安を見せない。
自信があるように話す。
わかりやすく説明する。
相手の立場を考える。
自分の感情を一度抑える。
これは、性格というより技術だ。
接客業、営業、経営、教育、福祉、医療、アートの現場、地域活動。
どんな場でも、この技術は求められる。
だから、コミュ力が高い人は、ただ明るい性格だからそうしているとは限らない。
その場のために、かなり気を張っているのかもしれない。
相手の機嫌を損ねないように、自分の感情を抑えているのかもしれない。
本当は帰りたいのに、笑っているのかもしれない。
コミュ力が高い人ほど、見えない労働が集まることもある。
「あなたならうまくやれるでしょ」
「感じよく話せるからお願い」
「場をつないでおいて」
「ちょっとフォローしておいて」
そうやって、人と人のあいだに立たされる。
うまくできる人ほど、うまくやることを求められる。
感じよくできる人ほど、感じよくいることを期待される。
話せる人ほど、話す役割を背負わされる。
これは、得でもあり、損でもある。
「コミュ力が高い人」は確かに評価される。
でもその評価の裏で、本人がかなり消耗していることもある。
だから、コミュ力を単純に「持っていると得な能力」とだけ見るのは、少し浅い気がする。
「感じがいい人」ほど疲れていることがある
コミュ力が高い人は、多くの場合、感じがいい。
相手を否定しない。
適度に笑う。
話を拾う。
言いにくいことをやわらかく伝える。
場を荒らさない。
相手が話しやすいように反応する。
こういう人がいると、周りは楽だ。
でも、感じがいい人は、ずっと自分の感情を調整している。
相手の言い方に傷ついても、その場では流す。
怒りをすぐには出さない。
不快感を笑顔で薄める。
相手のテンションに合わせる。
場が重くなりすぎないように、少し明るく振る舞う。
これは、かなり疲れる。
特に女性には、この「感じのよさ」が求められやすい。
女性は愛想よく。
やわらかく。
気を利かせて。
場を荒らさず。
でも仕事はできて。
人に好かれて。
嫌なことも角が立たないように伝えて。
こういう期待の中で、コミュ力は能力というより義務になる。
おとなしいと、暗い。
はっきり言うと、きつい。
愛想がないと、感じが悪い。
うまく話すと、便利に使われる。
この矛盾の中で、人は疲れていく。
「コミュ力が高い人って素晴らしい」と言うとき、その裏にある自己抑制や感情労働まで見えているだろうか。
私はそこを考えてしまう。
物静かな人は、本当に場を作っていないのか
あのトークイベントを思い返すと、物静かな人も場を作るのだと思う。
大きな声で場を支配するのではない。
笑いを取るわけでもない。
テンポよく話題をつなぐわけでもない。
でも、静かにそこにいることで、場の質を変える。
すぐに言葉を出さない。
だから、聞く側も少し待つ。
簡単にまとめない。
だから、観客も自分の中で考える。
沈黙を残す。
だから、言葉の重みが増す。
そういう場の作り方がある。
私たちは、場を作るというと、盛り上げることを想像しがちだ。
明るくする。
笑わせる。
話題を出す。
テンポよく回す。
でも、場を深くすることも、場を作ることだ。
静かな人がいることで、場の速度が少し落ちる。
言葉がすぐ消費されずに残る。
聞いている人が、自分の内側に戻る時間ができる。
これは、饒舌な場ではなかなか起きない。
もちろん、すべての場がそうである必要はない。
軽く楽しく話す場も大事だ。
テンポの良い会話に救われることもある。
でも、いつも明るく、速く、わかりやすく話すことだけがよい場ではない。
沈黙のある場。
言葉を待てる場。
すぐに答えを出さない場。
そういう場も、今の社会には必要なのだと思う。
アートや文学には、遅い言葉が必要だ
特にアートや文学の場では、遅い言葉が必要になることがある。
作品を見て、すぐに感想を言える場合もある。
でも、本当に深く残る作品ほど、すぐには言えないことがある。
好きなのか嫌いなのかわからない。
何が起きたのかわからない。
でも、気になる。
説明できないけれど、忘れられない。
時間が経ってから、じわじわ効いてくる。
そういう経験がある。
そのときに必要なのは、饒舌な説明だけではない。
「これはこういう意味です」とすぐに回収する言葉よりも、
「まだよくわからないけれど、何かが残っている」と言える言葉のほうが、作品に近いこともある。
アートの場でも、文学の場でも、トークイベントでも、本当は沈黙が必要な瞬間がある。
言葉にする前の時間。
考えが形になる前の時間。
自分の中の反応を確かめる時間。
それをすぐに埋めてしまうと、作品や言葉が浅くなる。
最近は、何でもすぐに説明される。
展示のコンセプト。
作品の意味。
作家の意図。
社会的背景。
見どころ。
考察ポイント。
もちろん、説明は必要だ。
鑑賞者が置いていかれないためには、入口が必要になる。
でも、説明できることだけが作品の価値ではない。
説明してもなお残るもの。
言葉にした瞬間にこぼれるもの。
黙っている時間の中でしか感じられないもの。
それがある。
だから、饒舌ではない作家の対談に、私はむしろ信頼を感じたのかもしれない。
その人たちは、言葉を簡単に消費していなかった。
言えることと言えないことの境目を、ちゃんと持っているように見えた。
私の中の羨ましさと苛立ち
こう書きながら、私自身の中にも、コミュ力が高い人への羨ましさはある。
場にすっと入っていける人を見ると、やはりすごいと思う。
初対面の人とすぐに打ち解ける人を見ると、眩しい。
会話の中で自然に自分を出せる人には、かなわないなと思う。
そして、少し嫉妬もある。
自分が時間をかけて築いた関係に、社交的な人があっという間に近づいていくと、ざわつく。
自分が言葉を選んでいるうちに、話のうまい人が場を持っていくと、悔しくなる。
深く考えていることより、すぐに話せることのほうが評価されているように感じると、むなしくなる。
これは私の弱さだと思う。
だから、「コミュ力が高い人が評価されすぎる社会」に違和感があると言いながら、その中には個人的な痛みや嫉妬も混ざっている。
でも、その感情をなかったことにはしたくない。
自分が苦手だったものを、自然にできる人への憧れ。
その憧れがあるからこそ、少し意地悪な目で見てしまうこと。
それでも、物静かな人の価値が低く見られることへの違和感。
それらが混ざっている。
だからこの話は、外向的な人を批判し、内向的な人を持ち上げる話ではない。
むしろ、どちらも大変なのだと思う。
話せない人は、話せないことで低く見られる。
話せる人は、話せることでさらに話す役割を背負わされる。
その両方を見たい。
コミュ力を広く捉え直す
コミュ力という言葉を、もう少し広く捉え直せないだろうか。
よく話せる力だけではなく、聞く力。
すぐに返す力だけではなく、待つ力。
場を盛り上げる力だけではなく、場を深くする力。
相手に合わせる力だけではなく、自分の限界を伝える力。
誰とでも仲良くなる力だけではなく、必要な距離を保つ力。
それらも全部、コミュニケーション能力だと思う。
人と関わるとは、いつも楽しく話すことだけではない。
黙って隣にいること。
相手が言葉を探すのを待つこと。
無理に励まさないこと。
すぐに結論を出さないこと。
踏み込みすぎないこと。
自分の言葉で誠実に伝えること。
聞いた言葉を、すぐに消費しないこと。
そういう静かな技術がある。
ただ、それらは評価されにくい。
なぜなら、見えにくいからだ。
饒舌さは見える。
明るさは見える。
プレゼン力は見える。
人脈の多さも見える。
でも、待つ力は見えにくい。
沈黙を保つ力は見えにくい。
相手の言葉を急かさない力は見えにくい。
場の速度を落とす力は見えにくい。
見えにくい力は、ないものにされやすい。
だからこそ、意識して見ようとしないと見えないのだと思う。
話せるようになった自分と、話せなかった自分
私自身、話せるようになったことには救われている。
以前より人と関われるようになった。
仕事でも、生活でも、言葉にできることで楽になったことがある。
自分の考えを伝えられるようになったことで、開いた場所もある。
だから、コミュニケーション能力を軽視したいわけではない。
でも、話せるようになった今だからこそ、話せなかった自分を否定したくない。
あの頃の私は、言葉が遅かった。
でも、感覚が鈍かったわけではない。
むしろ、いろいろ感じすぎていた。
相手の反応を気にしすぎて、言葉が出なかった。
場の空気を読みすぎて、自分の声を出せなかった。
それは、単なる未熟さでもあったと思う。
でも、それだけではなかった。
繊細さもあった。
慎重さもあった。
相手を雑に扱いたくない気持ちもあった。
言葉を軽く出したくない感覚もあった。
もちろん、そのままでは不便なことも多かった。
だから、少しずつ話せるようになってよかったと思う。
でも、話せるようになった自分だけが成長した姿で、話せなかった自分は劣っていた、とは思いたくない。
人は変わる。
コミュニケーションの形も変わる。
でも、過去の自分の静けさにも、何か意味があったはずだ。
無理して社交的にならなくてもいい
人と関わる力は必要だ。
でも、全員が同じように社交的になる必要はない。
物静かな人は、物静かなまま社会にいていい。
話す前に考える人は、その速度でいていい。
大勢の場が苦手な人は、一対一の関係を大事にしていい。
雑談が苦手でも、誠実なやり取りができるなら、それもコミュニケーションだ。
もちろん、「私はおとなしいから何もしません」で済む話ではない。
相手に伝える努力は必要だ。
最低限の応答や説明を放棄すると、関係は成立しにくい。
沈黙が相手を不安にさせることもある。
でも、自分を無理に明るい人間に作り替えなくてもいい。
自分なりの伝え方を持てばいい。
話すのが苦手なら、文章で補う。
大勢の場が苦手なら、少人数で丁寧に話す。
即答が苦手なら、少し時間をもらう。
雑談が苦手なら、聞く力を育てる。
社交が続くと疲れるなら、回復する時間を予定に入れる。
それもまた、コミュニケーションの工夫だ。
コミュ力とは、本来、陽気な人間になることではない。
自分と相手のあいだに、無理の少ない通路を作る力なのではないか。
その通路の作り方は、人によって違っていい。
沈黙を許せる社会へ
本当に必要なのは、全員がコミュ力を上げることだけではない気がする。
むしろ、沈黙やぎこちなさをもう少し許せる社会なのではないかと思う。
すぐに返事ができない人を、無能だと決めつけない。
雑談が苦手な人を、感じが悪いと切り捨てない。
静かな人に、無理に明るさを求めない。
人前で話せる人に、いつも場を任せすぎない。
社交的に見える人にも、休む権利があると考える。
そういう社会。
コミュ力が高い人が活躍できることは、もちろん大事だ。
でも、コミュ力が目立たない人も、安心して存在できることも同じくらい大事だ。
話す人だけで場ができるわけではない。
聞く人がいるから、話す人も話せる。
静かに考える人がいるから、場が浅くならずに済むこともある。
すぐに反応しない人がいるから、軽すぎる流れにブレーキがかかることもある。
物静かな人は、場を盛り上げないかもしれない。
でも、場の奥行きを作っていることがある。
その価値が、もっと見えてもいい。
言葉を待つことは、人を待つこと
あのトークイベントで、観客は二人の作家の言葉を待っていた。
その光景が、今も少し残っている。
言葉が出るまでの沈黙。
それを急かさない空気。
話し手が、自分の中から本当に言える言葉を探す時間。
聞き手が、その時間ごと受け取る姿勢。
それは、単に話を聞くということではなかった。
その人の速度を尊重することだったのだと思う。
言葉を待つことは、人を待つことでもある。
その人がすぐに言える言葉だけではなく、少し時間をかけて出てくる言葉も信じること。
その場で流暢に話せる部分だけで、その人の中身を判断しないこと。
沈黙の中にも、考えや感情があるかもしれないと想像すること。
それは、簡単なようで難しい。
私たちはすぐにわかりたがる。
すぐに答えてほしがる。
すぐに反応してほしがる。
すぐに場を成立させたがる。
でも、人の言葉は、そんなに速く出てこないことがある。
特に、本当に大事なことほど、すぐには言えない。
軽い話ならすぐできる。
決まり文句ならすぐ言える。
でも、自分の奥にあるものを言葉にするとき、人は時間がかかる。
その時間を待てるかどうか。
そこに、聞く側のコミュ力もあるのだと思う。
コミュ力の高さより、無理の少ない関係へ
「コミュ力が高い人」は、たしかに素晴らしい。
でも、私は最近、それ以上に、無理の少ない関係を大事にしたいと思う。
うまく話せるかどうかより、安心して黙れるか。
初対面で盛り上がるかどうかより、時間をかけて信頼できるか。
感じよく振る舞えるかどうかより、疲れたときに無理をしなくて済むか。
人脈が広いかどうかより、自分を失わずに関われるか。
そういうことのほうが、長い目で見ると大事なのかもしれない。
もちろん、社会ではそう簡単にはいかない。
仕事ではプレゼンも会議もある。
感じよく話さなければならない場面もある。
人と関わらずに済むわけではない。
自分の言葉で説明する努力も必要だ。
それでも、心の中で少しだけ、コミュ力信仰から距離を取りたい。
話せる人が偉いわけではない。
話せない人が劣っているわけでもない。
社交的な人が強いこともある。
でも、社交的に見える人が、いつも楽に生きているわけでもない。
人にはそれぞれ、関わり方の速度がある。
その速度を、もう少し尊重できたらいい。
饒舌じゃない人の言葉を、待つ
あの二人の作家は、饒舌ではなかった。
でも、言葉を持っていなかったわけではない。
むしろ、言葉を大切に扱っていた。
すぐに言えることだけを言うのではなく、少し沈黙しながら、自分の中から出てくる言葉を探していた。
その姿を見て、私は思った。
コミュ力とは、饒舌さだけでは計れない。
話す量ではなく、言葉との距離。
返しの速さではなく、相手を待てること。
場を盛り上げる力ではなく、場を深く保つ力。
自分をうまく見せる力ではなく、自分の速度で誠実に話す力。
そういうものも、確かにある。
そして聞く側にも、コミュ力はある。
相手を急かさないこと。
沈黙を気まずさとして処理しないこと。
言葉が遅い人を、能力が低い人だと決めつけないこと。
すぐに出てくる言葉だけで、人を判断しないこと。
それは、かなり大事な力だと思う。
私たちは、饒舌な人の言葉には慣れている。
明るい人の声も、聞き取りやすい。
テンポよく話す人の言葉は、受け取りやすい。
でも、饒舌じゃない人の言葉を、どれだけ待てているだろう。
言葉が遅い人の中にあるものを、どれだけ信じられているだろう。
それを考えたい。
それぞれの沈黙と、それぞれの声
社会には、いろいろな声がある。
大きな声。
明るい声。
速い声。
よく通る声。
人を惹きつける声。
でも、それだけではない。
小さな声。
遅い声。
途切れながら出てくる声。
沈黙のあとに、ようやく出てくる声。
その場では出なかったけれど、あとから文章になる声。
それらも声だ。
コミュ力という言葉が、明るく話せる力だけを指すなら、そこからこぼれる人がたくさんいる。
話せない人。
話すのに時間がかかる人。
人前では言葉が出ない人。
でも、ちゃんと考えている人。
ちゃんと感じている人。
ちゃんと世界と関わっている人。
そういう人たちの声を、どう待つか。
それは、私たちの側の問題でもある。
コミュ力が高い人が評価される社会で、私たちは聞く力を失っていないだろうか。
沈黙に耐える力を失っていないだろうか。
すぐに言葉にならないものを、存在しないものとして扱っていないだろうか。
あのトークイベントの静かな時間を思い出すと、そんなことを考える。
言葉は、いつも速く出てくるわけではない。
でも、遅れて出てくる言葉にしか宿らないものもある。
だから、もう少し待ちたい。
饒舌じゃない人の言葉を。
自分の中でまだ形になっていない言葉を。
誰かが沈黙の中で探している言葉を。
その時間を待てる場があるだけで、人は少し安心して話せるのだと思う。
コミュ力が高い人は、たしかに素晴らしい。
でも、言葉を待てる人も、同じくらい素晴らしい。
そして、饒舌ではない人の中にも、豊かな声はある。
それを聞き逃さない社会のほうが、きっと少し深い。
少しやさしい。
少し、人間らしい。
だから私は、あの沈黙のあるトークイベントを、とても良い会だったと思う。
話が流暢だったからではない。
場が盛り上がったからでもない。
言葉が、急がされずにそこにあったからだ。
その時間を、観客も一緒に待っていたからだ。
たぶん、コミュニケーションとは、ただ言葉を交わすことではない。
相手の速度を、少し信じること。
言葉になる前の時間も、人の一部として受け取ること。
そこから始まる会話もあるのだと思う。
-ao ooi
もしこの違和感が少しでも引っかかったら、
スキ🤍で教えてもらえるとうれしいです。
合わせて読みたい
👇
「“わかりやすい言葉”ほど、現実を雑にしてしまう」
「“自分を大切に”が、苦しくなる瞬間」
「見せる側に立つとき、何を失っているのか」
「自己肯定感という新しいノルマ」
「発信しない人が、存在していないように見える時代」
有料記事
「美しさまで、消費する時代」
