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「世界は贈与でできている」のはホントなのかと考えたら「交換」がアップデートされた 『世界は贈与でできている』 近内悠太著



 本を読んだときに今までに思っていたことが間違いだったわけじゃないけど、こういう見方もあるなと、新しい見方に気がつくことがよくあります。

 同じものごとでも見方によって評価やとらえ方が、全然違うことがあります。

 自分の見方は大切にしつつ、違う見方もあるのだということを知ることができるのは有益なことだと思います。

 違う見方があるからといって、180度自分の考えが変わるとは限らないけれど(そういうこともあると思いますし、それはすごいことですが)、違う見方があることを知ることで、自分の見方がアップデートされるということはあると思います。

 以下、本書でそういう体験ができたということを述べてみます。


「世界は贈与でできている」という見方


 本書は

『世界は贈与でできている』

 というタイトルです。

 一見して、市場経済の社会に生きるわれわれからしたら、世界は贈与だけではなく、商品とかお金の「交換」からも成り立っているはずであって、「贈与でできている」だけのはずはないだろう、そこまでは言えないのではと思われるところです。

 つまり、『世界は贈与でできている』は、いままでの見方とは違う見方を提示しているのかなと思います。

 『世界は贈与でできている』は、「贈与」の原理を「交換」との対比の中で検証し、最後に「贈与は市場経済のすきまを埋める」と展開します。

 本書の「贈与」の原理からの「贈与が市場経済のすきまを埋める」までの一連の展開を見たとき、いままでの市場経済の「交換」の見方もアップデートされたような気がしました。

 どういうことか。以下、もう少し具体的に。。

贈与が市場経済のすきまを埋める

 交換の限界、贈与の問題


 本書は、「贈与」を「お金では買うことのできないものおよびその移動」と定義します。

 対比する概念は「交換」です。
 イメージは商品やサービスという市場に存在するものの交換で、

「助けてあげる。で、あなたは私に何をしてくれるの?」

というギブ&テイク、ウィンウィンの関係、ということになります。

 筆者は、貧困に陥り生活保護も受けられなくなった男性が「他人様に迷惑はかけられない、死ぬしかない」という理由で高齢の母との心中を選んだ事例を挙げて、交換の論理の限界を説きます。 

交換の論理、つまりギブ&テイクやウィン‐ウィンの論理は、「交換するものを持たないとき、あるいは、交換することができなくなったとき、その つながりを解消する」ことを要求します。そしてそのつながりが「社会とのつながり」だった場合、社会とのつながりの切断とは社会の「外」へ行くこと、つまり「死ぬしかない」ということになります。だから、おそらくその男性にとっては「もう死ぬしかない」という選択肢以外は用意されていなかった。それは検討する余地のない、自明な結論だったのでしょう。

近内悠太.「世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学」
(NewsPicksパブリッシング) 

 交換の論理を採用している社会、つまり贈与を失った社会では、誰かに向かって「助けて」と乞うことが原理的にできなくなっている。経済的、精神的、肉体的に追い詰められたときに誰かに頼り、頼られることを交換の論理は拒否すると著者は説明します。

 つまり、誰にも迷惑をかけない社会が、誰からも頼りにされない社会誰からも必要とされない社会となることを著者は危惧しています。


 一方で、対価を求めない「贈与」は、つながりを作り出すことができます。知らず知らずのうちに「贈与」を通して私たちは他者とつながることができます。

 しかし、「贈与」には人と人を結び付ける力があるがゆえに、私と他者を縛り付け、つながりが私たちを疲弊させてしまうこともあると著者はいいます。

 贈与はたやすく他者を縛り付ける呪いへとかわってしまう。

 「贈与」の次元をあげる

 この困難を乗り越える道として、筆者は、受取人の視点から、「贈与」の次元を一つあげているとおもいます。
 つまり、実は、受取人が出現しさえすれば、あらゆるものが贈与になると筆者は述べます。
 「差出人が存在しない贈与」が存在するということです。
 我々は、往々にして人から与えられていたものに気が付かず、与えられていたことにあとから気が付くことがあります。
 このとき、差出人が不明でわからないことがあります。

 受取人が気が付かない贈与というのは、差出人の方からすると、届くのかわからない贈与をしているということになります(筆者はここで東浩紀氏の「郵便的」や「誤配」といった概念も紹介しています)。その差出人は、見返りを求めていないだけでなく、ほめられることも評価されることも求めていないということになります。

「贈与は差出人に倫理を要求し、受取人に知性を要求する」と筆者は述べます。

 受取人には、「自分はたまたま先に受け取ってしまった」という事実に気が付く想像力が必要となります。
 その想像力について、筆者は「求心的思考/逸脱的思考」という観点から説明します(詳しくは本書に書いてあります)。
 この想像力を得て、「自分はたまたま先に受け取ってしまった。だからこれを(別の人に)届けなければならない」という使命感が「生きる意味」「やりがい」につながるといいます。

 また、筆者は、贈与は交換を前提とした市場経済の「すきま」にあるといいます。
 「贈与か交換か」という二者択一ではなく、その両者を混ぜ合わせた、社会を作り直す道があると筆者はいいます。

「世界は贈与でできている」なのか

 筆者の結論は、贈与は、交換を軸とした市場経済のすきまを埋めるというものでした。

 そうすると、「世界は贈与でできている」のか

 贈与の存在はあるけど、市場経済で交換が主流だろうというのが最初思ってた見方でした。筆者も、現在の世界を市場原理が覆いつくしていると述べています。

 「世界は贈与でできている」というタイトルに対して、贈与がすきまを埋めるという結論は弱いような気もしなくはありません。

 ここからは、個人的な考えです。

 「交換」が主流なのはそうかもしれないが、これまで見てきた「贈与」の原理から次元をかえるプロセスを経て、「交換」のほうに立ち返って考えると「交換」の見え方も変わってくる気がしてきます。

 「交換」というのは、AがBに交付するものとBがAに交付するものが両方あります。
 そうすると、当たり前ですが、それぞれの交付する行為に差出人と受取人が存在することになります。
 であれば、一見「交換」ではあるが、実はそれぞれがお互いに「贈与」をしているという考えもありえるのではないか。
 つまり、AさんBさんが、それぞれ想像力を最大級に広げていくと、「交換」の意味が変わっていき、実はお互いに「贈与」をしていたということにならないか

 そうするともしかして「交換」はすべて「贈与」・・・?



 「世界は贈与でできている」?



 ただ、ここまでいってなんですが(笑)、すべてが「贈与」というのは、さすがにちょっと無理があるような気がします(上記の通り、贈与の「呪い」がありますし)。

 しかし、ここまでいってかえってくると「交換」の意味が想像力を働かせることによって変わっていたことに気が付きます。

 すべてが贈与とまでは思えなかったけど、「交換」の見方がアップデートされた、というのが本書の感想です。

 わたしたちは、日々、お金を払ってモノを購入していますが、本書をよんで、この支払はまだ知らぬ誰かへの「贈与」なのかもと思ったら、気持ちよく支払いができるかもしれません(笑)。


※Amazon のアソシエイトとして、この記事は適格販売により収入を得ています。

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