紙の本と電子書籍のどちらを選択するか問題についてリターンズ
1年くらい前に、紙の本と電子書籍のどちらを選択するか問題について、私なりの考えを記事にしました。
この記事を書こうと思ったのは、この論争において、今まであんまり言われていないよなと思ったことがあったので、そのことを残しておこうと思ったというのがきっかけです。
あんまり言われていないと思ったこととは、「実は、紙の本よりも電子書籍のほうがことばそのものを先入観なく読める」ということでした。
このことについては、添付の記事に詳述しているので読んでみていただけるとうれしいです。
どうでもいいことですが、実は、この記事は、lionの記事の中でもっともビュー数が多い記事です。未だに毎月200ビューくらいのビュー数で推移しています。
ということで、それなりにいいことを書いたなと調子をこいていたところでした。
そんななか、C.ディエムさんからこんな記事が投稿されました。
「紙の本の良さ」についての投稿です。
うむ!たしかに!そう思いながら読み進めていると……
なんとlionの上記記事の引用が!
そして、
これを書くにあたっていろんなことを調べてみるとね、興味深い記事に出会いました。誰が書いたんだろう~と思ってたら、過剰考察でご活躍の lion さん😅。いや~こんなとこでお会いするとは。
なんと!別ルートでお目にかかられるとは!面白すぎます(笑)
そのうえで、こんな記載が、
彼はとても深く考察されていますが、こちらでも本(文章)が表現する本質には触れられていない。やはりすごい考察力を以ってしても、人間ってものごとを考えるときは表面的なところの概念に支配されがちなのかなぁと思いました。表面的なところから掘っていくのが掘り下げなんですけどね(笑)。
むむむ!
なんかlionが表面的なことを言っているというふうに受け取られているぞ!
なんて挑発的な!(笑)
と思いましたが、そもそもこの前の記事をよく読むと、「電子書籍にはあまり一般には言われていないいいことあるよ」くらいまでしか書いていないので、そりゃそうか~とすぐに納得しました。
しかし、C.ディエムさんのご指摘を見て、さらに言いたいことはある!このまま引き下がらずに再反論(?)したくなってしまうのが考察勢の性です(ただしビビりなので嫌われたくはない)
ということで、あえてディエムさんの挑戦(?)に乗っかって、この「紙の本か電子書籍か問題」のリターンズをやってみたいと思います(笑)
紙の本の良さとは
そうはいっても、ディエムさんの記事が非常に深いことを言っているのは変わりません。
それがここ
論理的に説明=マテリアルに落とし込んで表現すること、ですから本来は読んだ感動なんて論理的に説明などできないわけです。でも紙の媒体というのは一部のリアル。そのリアルさは人間にとって、非論理的なものを論理的に存在するように錯覚させてくれるもの、だからです。
人間にとって非論理的なものはなくならない。なぜならば非論理的なものとは人間そのものだから。
う~ん。すでに深そうだ(笑)
つまり、紙のリアルさが、非論理的なものを論理的なものに錯覚させる、そして、人間そのものは非倫理的なものだから、人間にとっての非論理的なものはなくならない。
だから、
電子書籍やそれに代わる素晴らしいものが出てきても紙の本はなくならない。紙の本は非論理的なモノの唯一の代替だから。
とおっしゃっています。
う~む、手ごわい……
しかし、ココはあえて!これまで過剰考察だとか人目もはばからず言ってるlionだからこそ言えることがある!と大風呂敷を広げてみます(笑)
まず、気になったのはココ
紙の本は非論理的なモノの唯一の代替だから。
わたしは、ココがちょっと違うんじゃないかなと思っています(いきなり挑戦的笑)。
まず、非論理的な伝達手段は、紙の本が生まれる以前から、例えば、口伝や体で覚えさせる、書き写させる、などといった様々なものがあるわけで、少なくとも紙の本が唯一ということではないと思います。
グーテンベルクの活版印刷が出だしたのも500年くらい前ですし、それ以前にも、伝達手段はあったはず。西暦2000年以降に出た紙の本はその前の全ての紙の本の冊数を上回っているとかだったと思うので(違ったらすいません)、「紙の本」だけが非論理的なモノの全てというわけではないと思うのです。
ただこのアプローチは揚げ足取りな感じがするだけで、正直あまり面白くないので、このくらいにしておいて。
もっと本質的なところに突っ込んでみます。
この「紙の本は非論理的なもの」というところの妥当性についてです。
紙の本の質感とか手触りから、「非論理的なもの」を感じ取るという現象があります。これは私もそうだと思っていますし、否定しないところです。
ただ、「紙の本が本当に非論理的なのかどうか」ということについては、ちょっと説明を要すると思っているのです。
具体的にいうと、現代社会において大量生産している紙の本についていえば、書き手は「紙」であることに、非論理的なモノの全てを意図していることはないと思います。
いや、そういう場合もあるかもしれないけれど、少なくともそうじゃない場合のほうが、多いんじゃないかと思うのです。
例えば、手書きで書いた手紙とかだったら、「書き手が意図した非論理的なモノ」の比重がおおきいといえます。
しかし、少なくとも大量に出版される紙の本には、「紙」であることに書き手の意図はほとんどないと思うのです。
というのも、書き手は、本を手に取ってこんな質感だから、こんな挿絵だから、こんな文字の大きさでこんなフォントだからということをもって、読み手に何かを伝えたいというわけではない。
書き手は文章を書いています。
本の装丁や挿絵、見た目の構図やフォント、目次、見出しのデザインを決める人は、書き手以外の別の人のことが多いと思うのです。
もちろんブックデザインや本の質感に深い意図が含まれている書籍もたくさんあるのですが、少なくとも小説や論説の場合、書き手の意図は、「紙」であることというよりはむしろ文章や紡ぎ出す言葉そのものにあるはずです。
一方、手書きの手紙は、手書きで書くことに意味がある。書いた手紙という物体そのものに意味がある。だから、物それ自体に、書き手の意図がたくさん込められていることは多いと思います。
この点において、手書きの手紙と大量生産される紙の書籍は、決定的に違うということがいえると思います。
さらにいうと、大量生産される紙の書籍は、書き手の意図ではないものが混入していることが多いとすらいえます。
つまり、装丁や挿絵、フォントは著者自身ではなくて出版社とかの編集側が決めることが大半のはずです。
例えば、著者自身が紙の質感とかに関して、なんかイメージと違うなと思ったりしても、それを直すということは、出版社の意向に合わなければ簡単にはできないはずです。
だから、大量生産される紙の書籍は、書き手の意図とは異なる非論理性が混在している。
そうすると、むしろ紙の書籍よりも電子書籍のほうが、単なるデータにすぎないがゆえに、書き手の意図以外の要素が入りにくく、先入観が少ないのではないか。
電子書籍は、書き手の意図以外のものの混入が少ないからこそ、書き手の紡ぎ出す「ことば」によりダイレクトに接しやすい、こんなことを前回は申し上げたつもりでした。
しかしながら!
ここまで言ったくせに、なお、私は「紙の本」について、結論としては、ディエムさんと同様のことを考えています。
つまり、
電子書籍やそれに代わる素晴らしいものが出てきても紙の本はなくならない。
と私も思っています。
そのことについて、述べてみたいと思います。
紙の本がなくならないと思うわけ
ディエムさんがおっしゃられている、電子書籍にはない、「紙の本に込められた非論理的なもの」。私も、これはあると思っています。
電子書籍のほうが紙の本より先入観が少ないと思っているのに、大量出版される紙の本には、書き手の意図以外のものが込められてしまうと思っているくせに、なぜそういう紙の本に、電子書籍にはない非論理的なものがあると言えるのか。
書き手は、大量出版される本に「紙の本に込められる非論理的なもの」を込めることができない。
それでも現れる「紙の本の非論理的なもの」とは……
つまり、紙の本に非論理的なものを込めるのは誰なのか?という話です。
そう。
大量生産される紙の本に非論理的なものを込めるのは、「書き手」ではなく「読み手」なのです。
紙の本の質感、重み、装丁、デザイン、こういったものから非論理的なものを感じることができるのは、他ならぬその「読み手」だということです。
紙の本を読む、途中で線を引く、しおりを挟む、折り目がつく、手垢がつく、これによって、その紙の本は、非論理性を帯びたその読み手だけの本になる。これがディエムさんの記事にもあるリアルです。
私は、これが「紙の本に込められる非論理的なもの」なんじゃないかと思います。
つまり「その紙の本に、その非論理性を込めることができるのは、その本の読み手しかいない」ということです。
電子書籍は、どこまで行っても「データ」です。切り替えれば画面上から消えてしまうデータ。このデータ自体に「読み手」がその読み手だけの非論理性を込めることはとても難しいと思います。
ここに紙の本と電子書籍の決定的な違いがあるんじゃないかと思っています。
紙の本で読み手は何をしているのか
lionがこれまで言い続けてきたことに引き付けて、さらに論を進めてみます。
「紙の本に、非論理性を込めるとき」に読み手は何をしているのか?
前回の電子書籍の記事と比較すると見えてきます。つまり、大量出版される本には「紙」であることに書き手の非論理性はほとんど込められていない。ということは、裏を返すと、書き手の意図とは関係なく、読み手は非論理性を紙の本に込めることができるということです。
つまり、「読み手」は何をしているのか?
そう。
「読み手」は「創造」をしているのです。
これは、本アカウントがコンセプト本にしている「読んでいない本について堂々と語る方法」とリンクします。
読めているのか読めていないのかがあいまいな<ヴァーチャル図書館>では、「むしろ読んでいないほうがいい」とバイヤールは言います。
そもそも、ある本を読んだ後、それについて読み手が語ろうととしたとき、その本についての語りは既に<ヴァーチャル図書館>という不確定な空間のなかにあります。
それは、語り手がすでに自分で話を作り出しているということ。
そうすると、本について語ることは、既にあいまいな<ヴァーチャル図書館>の中での創造であるといえます。
ここにおいて、「紙の本にある非論理的なもの」は、「書き手」が意図して込めたものではない、その本から「読み手」が「創造する」ものだということが言えるのではないでしょうか。
だからもっというと、紙の本は読んですらいなくても、「読み手」は創造をすることができます。本自体の見た目や重み、本棚に並べてみた感じ、そこから見えるタイトルだけで、読んでいない本について堂々と語ったとき、「読み手」(まだ読んでないけど)は創造をしている。
別の記事で、積読について述べたときに、大事なのは「読んだかどうか」「何冊読んだか」ではない、「そこから何を創造したか」であると述べました。
紙の本だからこそ、その本はその人だけの本になる。だからこそ、その本を語るとき、読み手は「創造」がしやすい。
ここまできて、lionなりに紙の本と電子書籍の本の決定的な違いが見えた気がします。
つまり、こうです。
電子書籍は、「書き手の創造をつかみやすい」
なぜなら、書き手の言葉以外の先入観が入りにくいから
紙の本は、「読み手の創造を膨らませやすい」
なぜなら、紙の本は、その読み手だけの本になるから
だからこそ、私は、電子書籍が普及してもそれだけでは、紙の本はなくならないと思います。読み手が創造を続ける限り。
そんなわけで、最終的に、C.ディエムさんの結論に賛成です。
なんか我ながらけっこういい到達点にたどり着いた気がする!(笑)
前回書いたnoteから約1年のときを経て、紙の本と電子書籍の違いについてここまで考えを深められるとは、しかもこのアカウントのコンセプトの原点にまでリンクすることができた……完全なる自己満足……(笑)。
C.ディエムさんの挑戦に乗っかったおかげです。
C.ディエムさん、刺激的な機会を頂戴しありがとうございました。
ということで、興奮冷めやまらぬうちに出してしまおうということで、「今日一日を最高の一日に」
