「物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために」(難波 優輝 著、講談社現代新書)の面白さと率直な感想
世界は物語だけでできているわけではない。人生そのものは物語ではないし、物語的に生きることが常に善いわけでもなく、美しいわけでもない。
私にとって人生とは、さまざまなことが巻き起こり、出会いと別れがあり、楽しい会話や鮮やかな瞬間があるものであるが、それらを、特別、物語の形で語りたいとは思わない。物語的ではない生を私は生きられている。
人生は、「物語」ではない。
端的に言ってしまえば、そのような論旨の本です。
とても興味深い切り口でした。
昨今、ビジネスやキャリアの場面においても、「物語性」や「ストーリー性」と言われていることがあります。CMなどのコンテンツにおいてもストーリー性が重視されるなんてことがあります。あるいは、選挙における「候補者の物語」とか、そんなところにまで、ストーリー性があることの強さを感じる場面は多いと思います。
著者は、現代社会において「物語」があまりにも力を持ちすぎているという危惧を投げかけています。
では、現代社会に「物語」はどのような危険をもたらすのか。
そして、それに対する処方箋は?
これが本書で論じられていることです。
その切り口はとても興味深かったです。一方で、私なりに感じた結論は、本書と少し違う部分もあったので、最後にそのことにも触れてみたいと思います。
物語化のもたらす「わるさ」
著者は、現代社会の過度の「物語化」を批判していますが、その危惧しているところはどのような点にあるのでしょうか。
つまり、なぜ物語化は問題になるのか。
まず、著者は、「現代社会において物語化が重視されすぎている」と評価していますが、その理由として、私たちが共感や共通理解を求めていること、自分たちが何者であるかアイデンティティをはっきりさせたいと願っていることを挙げています(本書にもっと詳しく書いてあるので是非読んでみてください)。
つまり、「物語化」が重視されるのは、共通理解や共感といった素朴な願いが原点にある。
しかし、そのような性質であるがゆえに大きな問題があると著者は指摘します。
第一に、物語を通した理解を願うだけだと、誤解と欺瞞に陥る恐れがあること。自分のストーリで相手を理解することが相手を抑圧してしまうことがあるかもしれません。
第二に、誰かのストーリーによって自分の情動が抑圧されてしまう恐れがあること。上記と逆の話です。
第三に、物語を用いた自己像の探求は、凝り固まった自己像を作り出す恐れがあること。
つまり、「物語化」にこだわることで、抑圧したり、見落としたり、可能性を狭めてしまうおそれがあることを著者は指摘しています。
もう少し具体的に言うと、以下のような内容だと思います。
① 特定の物語に当てはめることによって、「自己語り」「他人語り」をすることで、我々は明晰な言語化に成功したような快感を得ます。しかし、一方でそれは、安易なパターン化や抑圧に陥る恐れがある。
② 物語につきものの情動には、規範性があるが、特にマイノリティに対して、一定の押し付けをする恐れがあり、現実社会においては適切な情動を意識しなければならない。
③ キャラクターを理想として実践することには、功罪があり、特に現実社会においては、徳を高めることにもつながるが、一方で危険も潜んでいる。
ここで指摘されていることは、現実社会で「物語化」を過度に取り入れると、理解や共感ができたような気になってしまうわりに、大事なことが取りこぼされてしまう危険があることではないかと思います。
筆者は、この部分に対して強い警戒を表明し、「物語を物語以外の用途で使うことをやめよ」と訴えています。
物語以外の遊び
第2部では、物語以外の4つの「遊び」が紹介されています。それぞれ、世界理解の仕方として、取り入れる「遊び」としてとても興味深かったです。
「物語」以外の「遊び」として、「ゲーム」「パズル」「ギャンブル」「おもちゃ」が上げられています。
誤解を恐れずに大胆に言うと、本書は、「物語」を完全否定しているのではなく、「物語」を含めた5つの遊びで適切に遊べということを語っているのではないかと思いました。
そのように理解すると、この本の印象は最初と最後で結構変わる気がします。
物語以外の「遊び」については、だいたい以下のとおり。詳細は、書ききれないので、ぜひ本書に当たってほしいです。
(1)まず、「ゲーム」は、「物語」よりも単発的で競争における勝利を目指す印象があります。ただ、物語と融合することもあり得て、RPG的なメタファーでとらえると、物語とゲームが融合したような発想になるといいます。経営者とかSNSインフルエンサーはこの発想で日々の人生をプレイしている人が多いような気がします。
(2)「パズル」は、謎解きをベースとする表現形式で、私もよくのたまっている「考察」もここに入ります。ちなみにここでは「考察」は、唯一の正解があって、それを目指して作品を解釈する営みのように定義づけられています。ある種の「ハッとする経験」を核とする表現形式とあり、物語的な「じりじり」と融合することでパズル的営みが発展していきます。
(3)「ギャンブル」は、運というコントロール不能の領域にある種の崇高さを見出します。過去の語りは関係なく、物語を切断する性質がギャンブルにはある。それは、ギャンブル的主体となることで、物語の呪縛から解放されるという側面があるのかもしれません。しかし、個人的にはギャンブルを全肯定するのはなかなか抵抗感があります。
(4)「おもちゃ遊び」は、他愛のない、意味のない、最もプリミティブでルールを持たない遊びを意味します。子どもがしているような遊びは、時に大人にとって理解不能なことがありますが、それは創造性の発言とも取れます。一方で、物語やルール・整合性・目的・動機といったすべての要素を破壊する側面もあります。破壊的で常識を超えた倫理観ということができるのかもしれません。
このように、筆者は、「物語」以外の4つの遊びを示したうえで、おもちゃ遊び的な生き方について、一緒に遊びつつも、その遊び方に没入しすぎないという意味で、一定の評価を促しているように見えます。
結論としては、著者は、この「物語」を含めた5つの遊び全てに魅力と危うさがあることを指摘したうえで、さまざまな遊びの世界を旅してみてもらいたいとまとめています。
本当に現代社会は「物語」が力を持ちすぎているのか
ということで、非常に興味深く面白い視点を与えていただけるので、本書はとてもおススメです。
最後に、この本の結論に関する私の思ったことを少し述べたいと思います。
著者は、現代社会において「物語」が力を持ちすぎているということを批判しています。そして、強い警戒を表明し、「物語を物語以外の用途で使うことをやめよ」と述べています。
これは、物語は物語の世界で物語として味わうために、現実の世界に物語化を過度に取り入れるのはやめるべきだ、という趣旨で理解しています。
そのうえで、物語以外の4つの遊びを提示するという論旨です。
この点については、前提のそもそも、現代社会において「物語」が力を持ちすぎているというところに疑問があります。
確かに、政治家が選挙で候補者の物語を語ったり、就活の面接で、自分の半生をストーリー的に語ったりすることはあると思います。
しかし、どちらかというと、最近の社会はむしろ「物語化」が希薄化しているんじゃないかという気がしています。
少なくとも、よく言われる「大きな物語」は、失われたと言われて久しいです。みんなが同じニュースに熱狂し、同じテレビ番組を見て盛り上がり、同じスポーツチームを応援するという現象は、希薄化して、個別化している印象があります。
じゃあ、今は個人個人が「小さな物語」に依存しているのかというと、大半の人はそんなことはないんじゃないかという気がしています。
自分自身や社会に物語性を見出すことができる人は、いわゆる「優秀な」一部の人なのではないでしょうか。
大半の人は、ゲームやパズルやギャンブルやおもちゃ遊びをよくやっている。「物語」ってそもそも取り入れる人が少数派です。
というのも、「物語化」「ストーリー化」ってすごく難しいことだと思うのです。
私みたいな田舎暮らしですと、例えば町のみんなで会合したときに、何かイベントをやりたいとかが話になっても、あんまりにもストーリー性がなくて、物語というよりは、ここでいうおもちゃ遊びをやっていることのほうが多いです。
なんか目的もなく「とりあえず盛り上げたい」といって、実現しなかったり、大して盛り上がらずに終わってしまうことのほうが多いように感じます(そういうのだと正直コミットする気が起きません……)。
地元でやっているイベントごとは大半がおもちゃ遊びなんじゃないかと思っていて、むしろこっちが無批判に蔓延し続けていることの方が、深刻な問題のような気がしています。
これは、別にその人たちが悪いわけじゃなくて、物語化やストーリー化って本来結構難しいということを指摘したいです。そもそも、ストーリーって言われてもそのこと自体、意味がよくわからないという人は結構いると思っています。
何も考えなくても依存すればそれでよかった「大きな物語」がなくなり、むしろ社会は物語を見出す能力を失った。そして、自分で物語を作れない人は、どちらかというともともとやっていたゲームやギャンブルやおもちゃ遊びに流れていく印象が強くなっている、そんな感じがしています。
冒頭で著者が述べていた「物語」の悪さ、つまり共感や理解を一定の枠にはめ込んでしまって、結局はそれが(特にマイノリティの)抑圧に結びついてしまう悪さ。
これは確かにそのとおりだと思うのですが、現代で生じている問題は物語的なデメリットの表出というよりは、それ以外の遊びに起因するデメリットの表出の方がけっこう多いような気がしています。
あるいは、こういうことができるのかもしれません。
私たちは、そもそも「遊ぶ」こと自体がすごく下手になってしまった。
人生においてどの遊びも上手にできなくなってしまった人が増えてしまった。そのことが閉塞感につながっているような気がしてなりません。
つまり、「物語」が強さを持ったというよりは、私たちは、どの遊びもうまくできなくなってしまった。どの遊びをどうやったらいいのかがよくわからなくなった人が増えてしまった、そんな気がしています。
「物語」が、人生の自由を抑圧したというよりは、「遊び」自体がしずらくなったことが自由を抑圧しているのではないだろうか。
だから、この問題について私なりの考えをいうとしたら、
どれでもいいから、もっと、遊んでみたらいいんじゃない?
という感じです。
ここまで書いて、もしかしたら、著者も最後はそんなふうな結論に至ったのではないかなという気が勝手にしてしまいました。
というのも、著者は、冒頭で「物語」の物語以外での現実社会での蔓延を強く批判していたように感じたのですが、最後には、「物語」を含めた5つの遊びを肯定してバランス良く使っていくことを奨励しているように見えたからです。
そのうえで、5つの遊びの魅力と危うさを整理している。
そうだとしたら、今度は
私たちは、どうして遊べなくなってしまったのか?
どうやったら上手く遊べるのか?
という問いを立ててみてもいいんじゃないかという気がしました。
でも、超個人的には私もギャンブルだけは勘弁してほしいなあと思っているんですけどね(笑)
そんなわけで、この営み自体、ある意味考察的なパズル的な遊びなのかもしれないなんて思ったりして「今日一日を最高の一日に」
