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現代フランス哲学を軽視した若き日を悔いる。

学生時代は、定義と研ぎ澄まされた論理こそがすべてだった。分析哲学を信奉し、辛辣な現実と向き合うには、それ以外は″甘え"だと思っていた。それゆえ、現代フランス思想を"お洒落な言葉遊び"と切り捨て、どこかで冷笑していた。*ソーカル事件の知識も、その軽蔑を正当化させていた。

*ソーカル事件
(物理学者のアラン・ソーカルが、ポストモダン思想の難解な用語をデタラメに散りばめた論文を提出したところ、有力な学会誌がそれを"価値ある論考"として掲載してしまった事件。)

"知性の不在"を露呈させたその茶番を知ってしまった稚拙な私は、フランス哲学は信じるに値しない虚構だと切り捨ててしまった。

だが、歳を重ね、数多の絶望を知った。
それが土壌となり、サルトルが説いた"絶望からの実存主義"や、二項対立では語れない様相が、ようやく言葉の装飾を剥ぎ取った"手触りのある真実"として、私の内に腑に落ち始めている。

私はいつも遅い。多くの人がとうの昔に通り過ぎ、気付いているであろうことに、長い時間をかけないと辿り着けない。多感な青年期に今の知見があればと悔やむこともあるが、この「遅さ」こそが、論理から身体へと理解を落とし込むために必要な時間だったのだろう。

こんな折には、漱石の『それから』の代助を思い出す。
彼もまた、遅れてやってくる自分の真実にどう向き合うべきか、静かに葛藤していた。しかし、最終的に彼はその遅れを突き破るように、自らの真実へと飛び込んでいった。私も彼の爆発力を見習いたいものだ。

と、1ヶ月ほど前に書いていたが…
やっぱり分析哲学が好き。

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