「すべてきみに宛てた手紙」を読んで。
どうやら気がつかない内に梅雨入りしたらしい。この前の土砂降りはその入口だったのね、と納得するそぶりを見せた。
土砂降りのころ、長田さんの本を読んだ。
「すべてきみに宛てた手紙」
どこでこの本を知って手に取ったかはもう覚えていない。ただ、読んだ、というより、時々立ち止まりながら歩いた、という感覚だった。
恐れを知らず、
入ってこないページは少し飛ばした。ごめん。
以前の私なら、それをどこか後ろめたく思ったかもしれないけれど、本も人も、出会うべくして出会っている。なので多少の飛ばし読みをしたとて、またいつか開いた時に出会えるに違いない。
「歓談」
「心を割る」
「灯り」
長田弘さんの言葉は、意味だけではなく、その言葉が連れてくる景色まで見せてくれる。
歓談という言葉には、夜更けの食卓がある。
心を割るという言葉には、静かに向かい合う二人の姿がある。灯りという言葉には、眠る前に本を開く時間がある。
そういう言葉のそばにある景色に惹かれた。
読んでいて、ふと14歳の自分を思い出した。
海辺のカフカを夜通し読んで、ベットから一度も出なかった夜と朝を。
「詩は(わたしにとっては)語るためのことばではありません。黙るためのことばです。」
という一節がとても心に響いた。
未だに「詩」ということばを私の中へ落とし込めていないが、うまく感想を言えなくて、ただページを閉じて、少し窓の外を眺めては、またページを開いた。
詩とは、そういう時間そのものを表している気もした。
最近、人生に大きな出来事が続いている。
別れもあった。引っ越しもあった。
家族のこともある。
気がつけば、自分がどこへ向かっているのかわからなくなる日もある。
けれど本を読むと、遠くへ行くのではなく、自分のところへ帰ってこられる。
私は何が好きだったのか。
どんな暮らしをしたかったのか。
どんな人でありたかったのか。
それらを思い出させてくれる。
だから私にとって読書は知識を得るためだけのものではない。ときどき読み返し、そのたびに少し違う自分と出会うためでもある。
本は一過性のメディアではなく、一人の「私」にとっての百遍のメディアである。
その言葉を読んだとき、何度も同じ本を開いてしまう理由がわかった気がした。読書とは、自分を読み返すことなのかもしれない、と。
長田弘さんの言う「三本の小さなロウソク」のように、大きく未来を照らすほどではないけれど、
今日という一日を、
静かに過ごすには十分な灯りとして
この本をそばに置こう。
