映画をみる その9 ふたり 大林宣彦監督
先日の「セーラー服と機関銃」同様、赤川次郎原作の映画化。「ふたり」は1989年に刊行された小説で、大林宣彦監督が1990年テレビドラマ化、1991年に映画化した。赤川次郎は子供の頃にたくさん読んだのだけど、たまたま「セーラー服と機関銃」と「ふたり」は未読だった。
で、先日note記事に書いたとおり相米慎二監督の映画「セーラー服と機関銃」の傑作ぶりに驚いたのだけど、大林宣彦監督の映画「ふたり」がさらなる傑作で、赤川次郎すごい。。。となっている。
「セーラー服と機関銃」はラストのあの歌がかかるあたりから泣けて仕方がなかったけれど、「ふたり」はわりと最初の方からところどころ、なんてことのない場面でも何故か何度も涙腺が刺激された。幽霊譚だからか。死と生のはざまで生きている少女の繊細さときれいさに胸をつかれたのかもしれない。
どちらの映画も大島弓子的な内容で、実際小説「ふたり」の表紙イラストは大島弓子。イラスト人選が適格すぎる。
どちらも、少女が危機を経てひとまずのハッピーエンドに立つのが大島弓子的。納得のいく終わり方かつ後味が悪くない。バッドエンドで終わらせるのは難しくないけれど、深みのあるハッピーエンドにもっていくのは難しい。
それにしても相米慎二も大林宣彦も、大島弓子的な少女を描くのがうますぎる。大島弓子的な少女というのは、ふわふわして、壊れそうで、透明感があって、すなおで、というような。「セーラー服と機関銃」のほうは、ふわふわ感は主人公ではなく脇役の女性にあるのだけど。
さて「ふたり」の主人公は石田ひかりが演じるのだけど、もう大島弓子のヒロインそのままというふわふわぶりで名演。その他の登場人物もいかにも大島弓子の漫画に出てきそうな人ばかりで、なんなんだこの映画はとびっくりする。大島弓子の原作でも監督でもないのに。
「セーラー服と機関銃」は荒唐無稽な物語だけれど、危機的な状況および状態にある少女の内面の大変化の過程をそのまま描いたらこうだろうなという感じで、大島弓子の漫画でいえば「快速帆船」。
「快速帆船」は今出ている本ならこちらに収録されている。
「ふたり」のほうは「セーラー服と機関銃」よりずっと重みがあり、不思議な設定だけれど、リアリティ、現実味がある。
この物語は、主人公でドジな妹であるところの中学2年の実加、および頼りない母の面倒をよくみる、しっかりもので美人で秀才でピアノがうまくて演劇部のスターだった高校2年の姉の千鶴子が、事故で突然亡くなったところからスタートする。
その姉が高校の制服を着た幽霊となって出てきて、妹にだけは見える。幽霊の姉は妹を励ましたりサポートしてくれたり、生前同様に姉妹のたわいのない会話をしたりもする。
そんなこんなで年月がすぎ、妹が高校2年、3年になったあたりで、姉は最終的に完全にあの世へ行ってしまい、幽霊としても出てこなくなる。家庭の問題が完全に解決されたわけではないけれど一区切りつき、妹もすこし成長したと思う。姉がいなくても大丈夫なくらいには。
姉の幽霊は妹の少女にとってはリアルであっても、本当はそうではなく不安定な少女の妄想だ、まさに「中2病」だという解釈は成り立つけれども、ほんとうに幽霊があらわれているというリアリズムの物語としても解釈できる。
私はこの映画全体のベースにある重みを思うと、後者で解釈するほうがよいように思う。不思議な話だけれどほんとうに起こっていることであると。主人公の少女はふわふわしているのだけれど、この映画全体はそうではなく重いのだ。
しかしこの重さのなかで、よくこのふわふわした人を描けたな〜!暗くないんだよ主人公が。
主人公にかぎらず女子中・高生たちには若さ特有の明るさやきらめきがあって、尾道オールロケだから街も海も風景が美しく、映画全体は重いんだけれど、主人公たちも風景も明るくて美しい。重いし悲しい物語なのに、良かったというだけではなく楽しい映画を観たという気持ちが残る。大林宣彦ほんますごい。
物語が展開するにつれて、父が不倫をしていたり、母の精神的な脆さがいっそうあらわになったりもして、なんというか、この両親の問題が娘たちにかぶさって、結果的にこのお姉さんは、事故とはいえ家庭の負のエネルギーを全て引き受けて死んだのではないかとさえ思われた。犠牲者的に。あるいは、家族でいちばん弱かったのは「しっかりもの」に見えたこの人だったのかもしれない。
この幽霊の姉がほんとうに消えてしまうまでには2段階あり、まず妹が、誰にも言ったことない秘密だと、いつも褒められるのはお姉ちゃんばっかり、お姉ちゃんなんか消えてしまえと思うことが姉の生前にあったと告白した。それを聞いた幽霊の姉は明らかに傷ついて、妹は混ぜ返すけれど、言ってしまったことは戻らない。
姉は姉で、自分は器用だから目立つだけだ、あなたは素晴らしいものを持っている、自分とは違うと、妹の書く小説をほめたりする。死ぬ間際、妹にそう言い残してこの姉は死んだ。いい子だよな。
さらに両親の関係の危機が最高潮に達した際、幽霊の姉が妹の暴走を止めようとしたのに反発して、妹が、お姉ちゃんなんて消えてしまえと言ってしまう。そして妹は父親を殺そうとまでするものの、両親は急転直下で和解する。
このしっかりものの姉が、お姉ちゃんなんて消えてしまえと妹に言われ、妹が父親を殺しに行ってひとりでいるとき、静かに涙を流すシーンは圧巻の名場面。しっかりものだけれど高校2年なんだよね。この「しっかりもの」で気丈な少女(の幽霊)の傷ついた感じ、透明感ときらめきは、中嶋朋子の名演。よくぞこんな見事なシーンを撮ってくれた。大林宣彦ありがとう。
妹は、保護的な存在である姉からのサポートやケアをふりほどきたくなるという、精神的自立への第一歩を踏み出している。その瞬間に、姉が全てを理解して消える(ことを決めたんだよね、たぶん)のも見事。
これは依存的な人だったら執着してサポートやめないのに、この姉はさすがこういう理解と行動の素早いところが「しっかりもの」で「伝説的な秀才」かつその場その場で即座に動かなければいけないピアノや演劇で活躍した人というのがよく出ている。
他方で妹も、死ぬのが頼りになり人気者だった姉でなくて自分ならよかったと悩んで、何言ってんだこのバカと親友にビンタされたりする場面もあった。この親友もよかった。大島弓子で言えば「ダイエット」の主人公の親友みたいな、判断力があって善良かつてきぱき動ける人。この子も大好きなすてきなお父さんが死んでかわいそうだった。
姉との親密さだけではなく、この親友とのチャム関係もよく描かれていて、ほんま見事。
「ダイエット」はこちらに収録されている。ところで表題作の「つるばらつるばら」と、先にあげたほうの本の表題作「ダリアの帯」は、私の好きな大島弓子作品の双璧。
それにしてもかのように、この姉妹はそれぞれに、自分なんかいなくなったほうがいいと根底に感じているところがある。そう思わせたのはそれぞれに不安定な両親でしかなく、この両親は娘たちを可愛がっているいい親なんだけれど、いかんせん精神的にとても不安定な人々。母親は精神科に入院するほどに。ところで父親役の岸辺一徳が若い!
妹の親友も、姉の友人だったという男性も、いい味を出している。また姉妹に敵対する女子たちも出てくるけれど、両親もそのほかの人々も全員、まったくもって大島弓子の漫画に出てきそうすぎてウケる。
ふわふわな妹と、どちらかといえばシャープでキラキラな姉、ふたりとも透明感があって可愛らしく、並んで映っていたり、たわいのない会話の場面など、いちいち可愛らしく、1人が幽霊であるだけにせつない。それだけで眼福なのに、この非現実的で不思議な設定の重い物語を描き切っているのだからすごい。この映画に賞をあげた高崎映画祭はえらい。
尾道オールロケで、尾道の風景も美しい。そういえば尾道といえば「東京物語」。
ロケ地マップがある。
聖地巡礼の対象にもなるんだね。
ウィキペディアによると「映画は原作にほぼ忠実で、赤川自身でさえ限りなく近いので驚いたという」ううむ。。。すごいな。
さらに「ふたり」は「赤川次郎の代表的作品であり、本人も名刺代わりの作品であると述べている」とのこと。「映画は原作にほぼ忠実」なら、名刺代わりの代表作に相応しい傑作だろう。赤川次郎には他にも売れたり人気作品がいろいろとあるのに、ご本人がこれを「名刺代わりの作品」というのはいいですね。小説も読んでみたい。
姉の幽霊が消えた後の妹は、姉のことを、姉のくせのついた姉の万年筆で、小説として書き始める。自分のために。
それにしても大林宣彦監督は幽霊を描くのがうまいなあ。やはり大林監督の映画「異人たちとの夏」(1988)で、とくに「両親の幽霊」がすごくよかったのを思い出す。
ジェントル・ゴースト・ストーリーをリアリティを出してうまく描くって、そうそうどんな芸術家にでもできることではないと思う。
「ふたり」を読んだ人たちが大林宣彦に映画化してほしいと言ったことをきっかけに、大林宣彦は小説を読んで、映画化したいと思ったそうだけれど、少女を描くのがうまい人は他にもいるとして、さらに幽霊を描くのもうまい人はなかなかいないから、大林宣彦による映画化でよかった。
大林宣彦の映画は好きだけれど、今まで観たなかではこの「ふたり」がダントツでよかった。これはどうなんかなと引っかかるところがまったくない傑作。高崎映画祭以外の映画祭は目がふしあなだったのか?
赤川次郎は変わった父親のために生育家庭で苦労した人ながら、母と兄姉がよい人だったらしく、不幸だと思わなかったそう。
「ふたり」は主人公の少女が将来小説家になるんだろうなと思われる終わり方をするけれど、原作者に即して考えてみるなら、赤川次郎の内なる女性性が成熟過程でどのような危機を経たか、また小説家になるまでの内面の過程を、ドラマにしたらこんな感じなのかもしれない。それにしてもいい物語だった。原作読みたいな。
赤川次郎が父親や生育家庭について語るのはこちら。よかった。
折々に歌われるテーマソングも可愛らしくてはかない感じがしてよかった。少女の声、少女の物語。石田ひかりと中嶋朋子の声も、キラキラしていていいんだね。この映画の音楽は久石譲で、私はこの人の音楽がきらいではないけど好きというほどでもなかったけれど、この映画の音楽はテーマソングもふくめてよかったよ。甘ったるくはないけど適度に抒情的で、少女時代の美しさが描かれるこの映画にはよく合っていたと思う。
こちらはエンドロール。大林宣彦と久石譲が歌っているとのことで、これはこれで味わいがあってよかった。なんか「よかった」しか言ってないな笑
「ふたり」はいろいろなサービスで配信されているから比較的見やすいと思う。
Blu-rayについてる解説読みたいな(ハマっている笑
you tubeにあった😳
ここまで書いてきて、大島弓子だ大島弓子だと言っているばかりだけれど、女性のなかに男性性と女性性とがあるように、男性のなかにも男性性と女性性とがある。そして男性が自分の内なる女性性を描く場合に、それが大島弓子の漫画の主人公のようになる場合もあるだろうと、今さらながら腑に落ちた。
それは「あこがれの女性」とは少し違う。もっとなんというか、切実なものだ。そして自分のなかにある最も純粋な異性像をつきはなして独自の人として肯定的に、第三者であるところの観客が見ていとおしさが感じられるような描き方をするのは大抵のことではないと思う。しかもそれが大島弓子の少女であれば。すごい精神力で、死にかけているひとりの少女を、殺さないですくいあげて蘇生させたようなものだ。
(0518追記)そういえば10代の姉妹の話で、あいつばっかりみんなから褒められている、うっとおしいと思われている側、もちろん相手に対してそんなことは思っていない側が死んでしまう話の名作といえば萩尾望都「半神」(1984)。この姉妹は生前に仲がいい感じではなく、最も身近な者への愛憎や永遠の別離による喪失感、孤独や悲痛が主題で、話の雰囲気も映画「ふたり」と全員違って暗いし、それに萩尾望都の絵はふわふわしていないからか、すぐに気づかなかった。
でも「ふたり」も「半身」(神ではなく)を失う話ではあるよね。
同性の半身的存在を失う物語であれば、男性バージョンなら、血縁の兄弟ではないけれど村上春樹「羊をめぐる冒険」(1982)「ダンス・ダンス・ダンス」(1988)もそうか。
大林宣彦は世代が違うけれど、赤川次郎、萩尾望都、村上春樹は団塊の世代。「若い人が同性の半身的存在を失うことによるイニシエーションとその喪失感」を描く物語が、この世代の共有するテーマなのかどうかまでは今ちょっとわからない。一定の普遍性のある型ではあると思う。

