私と世界、ストーリーが現れるまで
アドヴァイタ(不二一元論)では、「私」と「世界」は同じもの、そして世界とは「幻想」だと言われます。
だけど、私たちの普段の感覚でそれを理解することって、すごく難しいことではないでしょうか。
そこで今日は、私たちの日常の何気ない光景を通して、「私」と「世界」が現れるしくみ、そして「幻想」とはいったい何なのかを、紐解いてみたいと思います。
先日、早朝にランニングをしていたときのことです。
歩道橋の上で、向こうから自転車に乗ったまま走ってきた人がいて、すれ違いざまにぶつかりそうになりました。
その瞬間、私の中で起こったことを、できるだけ詳しく思い返してみます。
まず、相手の姿を見た時点で、胸のあたりがぎゅっと縮こまる(収縮した)気がしました。
そしてすれ違いざまに、「怖い」という思いが湧いた直後、「こんなところで自転車に乗るなんて(あの人が悪い)」というストーリーが頭に浮かびました。
ここまで、ほんの数秒の出来事です。
こういった反応、私たちは一日に何度もしているのではないでしょうか。
たとえば、たまたま開いたSNSで、政治の記事を見て不安になったり、職場で仕事の遅い同僚にイライラしたり。
そして私たちは、どこかにその原因を探し出し、それを変えることが、解決への道だと信じてやみません。
だけど、そうやって出来事に対処し続けるやり方って、これまでの人間の歴史を振り返ってみても、どこか終わりがないような気がするのです。
本当は何が起きていたのか
最初に相手が近づいてきたとき、私の中には、「あの人が悪い」といったストーリーはありませんでした。
それより前に、あの「ぎゅっとした収縮」がありました。
怖い、悲しい、恐い、腹が立つ――そうした感情を覚えるとき、胸や胃、みぞおちのあたりに、まずこの「収縮」がある感じがしませんか?
そしてよく観察してみると、「私」というセルフイメージも、この収縮した小さな塊と、同じものになっていることに気づきます。
この「私」は、思考によって、大きくもなり小さくもなり、あるときは醜く、あるときは美しくなる。
それが、大きく広がったものや優れたものに感じられるとき、私たちは安心を覚え、小さく縮こまったものに感じられるとき、ここにいてはいけないような窮屈さや、罪深さのようなものを覚えます。
そして、それを補おうと、私たちは自己肯定感を求めたり、比較をやめたりして、安心を取り戻そうとするのかもしれません。
だけど、ひとつだけ気づかれていないことは、その「私」とは、常に移り変わる、実体のない思考のイメージにすぎない、という事実です。
この「私」は、「イメージ」でしかないというその性質ゆえに、単独では存在できません。
広がりであれ、窮屈さであれ、その輪郭を維持し続けるための背景――世界が必要となるのです。
「私」と「世界」は、同時に現れる
この「私」と「世界」――ふたつの関係性を、ラマナ・マハルシはよく「眠り」の話を例に説明しています。
とてもわかりやすいので、このnoteでも繰り返し書いてしまいますが、ご了承ください。
深い眠りの中、「私」がいないとき「世界」はなく、夢の中で「私」が現れると「世界」も現れます。
だけどそのどちらも、ひとつの意識の中で起こったものにすぎなかったと、私たちは目覚めて気づきます。
それを、あの歩道橋の出来事に当てはめてみると――「私」というイメージが、収縮として現れた瞬間、その枠組みを証明する世界もまた、目の前に映し出されていたことに気づくのです。
私=私は切り離された個人だ。
世界=あなたは切り離された個人だと証明する背景。
つまり、「私」=個(自我)というひとつの感覚が、内側の収縮と外側の世界として、まったく同時に現れていたのです。
原因のすり替え
ではあのとき、私の中で後付けのように生まれた「あの人が悪い」というストーリー、そこにはどんな目的があったのでしょうか。
私たちはいつも、収縮――限定づけられた苦しみの原因を、「私」という移り変わるイメージの側ではなく、世界の側に見いだします。
「あの人が悪いから私は不快になった」
「私に問題があるからこうなってしまった」
それはつまり、原因を自我から世界へとすり替えることで、「私」の不在という究極の恐れに触れてしまわないための、心の防衛システムなのかもしれません。
自我にとっては、そのストーリーが怒りであれ悲しみであれ、いかにそこに没頭できるかが重要になります。
ストーリーをどうにかしようと躍起になっている間には、大元の根っこが疑われることは、決してないからです。
私たちがふだん「癒し」と呼ぶもの――世界に原因を見つけ、「私」というセルフイメージをより良いものにするやり方に限界があるのも、そんなところに理由があるのかもしれません。
幻想とは何か
では、世界=幻想とはどういう意味なのか。
非二元では、この「幻想」という言葉が、ときに自我にとって都合の良いように解釈されているように感じます。
たとえば、「目の前の現実や苦しみは幻想なんだから気にしなくていい、なかったことにしよう」というように。
だけど、「幻想」という意味の本質もまた、この「私」の側にあるように思うのです。
そもそも、世界を見ている「私」が思考(イメージ)にすぎず、そしてその「私」が解明する世界もまた、思考(イメージ)でしかありません。
つまり「幻想」とは、「私」(思考)には、何ひとつ絶対的なものは掴むことはできない、というサレンダーのようなものなのかもしれません。
同時に、この「私」(思考)は、「絶対」を知ることがないがゆえに、その不安定さの原因をどこかに探し続けます。
そしてその片割れである世界は、その原因(足りなさや間違い)をいくらでも用意してくれるのでしょう。
この、終わりのないループ。
だけど、この「私」、そしてそれを支える背景(世界)さえ、私たちの夢のしくみと同じなのだとしたら。
窮屈さ(制限された世界)と窮屈な私
広がり(美しい世界)と自由な私
問い(掴みどころのない世界)と知りたい私
その対の働きは、ただひとつの実在の中に現れた、泡のようなものなのかもしれません。
