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【無料公開】「難無何成」って何なん?


私のポエムの中で、最も多くのスキと反応をいただいた作品の一つに、
**『難無何成』**があります。

読み方は、

なんななんなん。

タイトルからして、かなり荒唐無稽です。

そして正直に言えば、これを作ったときの私の思考も、だいぶ荒唐無稽でした。

ただ、すべてが思いつきだったわけではありません。

別々に生まれた文章。
突然挟まる漢文。
諸行無常。
恋愛。
社会への違和感。
自分自身への宣言。

一見すると、あまり関係のなさそうなものが一つの作品に集まり、なぜか成立した。

この記事では、『難無何成』がどのように生まれたのかを振り返りながら、

異質なものを、どうすれば作品の個性に変えられるのか

について考えてみたいと思います。

私がこの作品から学んだことを、先に一つだけ述べます。

異物は、作品を壊すものではありません。
異物同士をつなぐものがあれば、それは違いになります。

では、なぜこのタイトルになったのか。
なぜ古典調の文章に、突然漢文が入ったのか。
そして、なぜ最後に「我、最も我也」と宣言したのか。

ここから、作品ができた過程を順番にお話しします。

この作品は、もともと一つではなかった


まず、『難無何成』は大きく三つの部分に分かれています。

一つ目が、「茶を啜る」までの部分。

二つ目が、漢文の部分。

三つ目が、それ以降の「我、最も我也」へ向かう部分です。

そして前半の二つは、もともと別々に作った作品でした。

最初から一つの作品として設計していたわけではありません。

別々に生まれたものを並べてみたところ、直感的に、

「なんか、うまくいくかもしれない」

と思った。

そこが、この作品の出発点です。


なぜ「難無何成」というタイトルになったのか


おそらく一番気になるのは、

「なぜ、こんなタイトルになったのか」

ということだと思います。

理由は、わりかしシンプルです。

面白そうだったから。

私は、感情は伝播するものだと考えています。

タイトルに面白さがあれば、読んだ人にも、その面白さが少し伝わるかもしれない。

「何だこれは」と立ち止まってもらえるかもしれない。

そう考えています。

日常の中で、私は「なん」という音が、いろいろな漢字に変換できることに気づいていました。

難。
無。
何。
成。

それらを組み合わせて、四つの「なん」を並べた結果、

難無何成

になりました。

かなり無意識に作った部分もあります。

ただ、後から読み返すと、

難なくば、何を成す

というような意味にも見えてきました。

おそらく私は、ただ音が面白い漢字を選んだのではなく、その中でも意味を感じられるものを無意識に選んでいたのだと思います。

このタイトルには、

* 面白い音にしたい自分
* 意味のある漢字を選びたい自分

という、二つの自分が入っています。

私は、一つの発想だけで考えるよりも、複数の異なる考えを重ねたときに、面白いものが生まれやすいと感じています。


花が散るのを、人はなぜ見ているのか


第一節には、諸行無常の考え方があります。

花々しくや散りゆくを
それはそれやともてはやし

花や木は、いずれ散っていく。

滅びていく。

それなのに、人はその姿を見て、持て囃します。

私は、そうした諸行無常の考え方が好きです。

ただ、この部分で書きたかったことは、花や木に限りません。

何かが壊れていくこと。
誰かが消費されていくこと。
何かが終わっていくこと。

それを、安全な場所から眺める人間の姿にも当てはまると考えていました。


「茶を啜る」は、遠くから眺める者の姿


嬉々隆々と放流し
あれやあれやと茶を啜る

この部分は、おそらくエンハンスド・ゲームズについて考えていたときに生まれました。

ドーピングを認めた競技で、選手たちは身体を使って競い合う。

一方で、それを企画する人や投資する人、見物する人は、ワインや茶でも片手に眺めているのではないか。

そんな想像がありました。

当事者は身体を差し出している。

しかし、それを眺める側は、

「あれや、あれや」

と言いながら、茶を啜っている。

「放流し」という言葉も、少し珍しい言葉を選びました。

投げ出す。
流す。
自分の手元から離す。

そうした感覚の中から、一番意外性を感じる言葉を選んだのだと思います。

なぜ突然、漢文が入ったのか


続いて、作品には突然、漢文が入ります。

無君不知愛
無月不好宵

君がいなければ、愛を知らなかった。

それは、月がなければ夜を好きにならなかったことと同じである。

これは、もともと恋愛の作品として書いたものでした。

前半の社会的な視線とは、直接関係がないようにも見えます。

ですが、組み合わせてみると、意外にもリズムがつながりました。

古典調の文章が続く中で、突然漢文が入る。

それ自体が異物です。

しかし、音の流れが切れていないため、完全には浮かない。

そして意味の上でも、

人々が持て囃すこと。
それを遠くから眺めること。
誰かがいることで、初めて感情を知ること。

そうしたものが、ゆるやかにつながっていきました。

最初から論理的に接続させたわけではありません。

けれど、別々に生まれたものを並べたことで、後から意味が生まれた。

これは私にとって、とても面白い経験でした。

「我、最も我也」が生まれた背景


最後の、

我、最も我也

という部分は、その場で書いたものです。

私は以前から、

「自分が最も自分らしいのは、どのようなときだろう」

と考えていました。

当時は創作大賞のことで悩み、どの方向へ進めばいいのか分からなくなっていました。

それでも、転び、道草を食いながら、進もうとしていた。

止まることもある。

うまく進めないこともある。

それでも動こうとするとき、

その瞬間が、最も自分らしいのではないか。

自分が凡夫であることを知りながら、それでも進む。

そこに、その人の信念が現れる。

そうした考えが、

我、最も我也

という言葉になったのだと思います。

一見バラバラでも、つながることがある


この作品には、

* 諸行無常
* 社会への違和感
* 恋愛
* 漢文
* 自分自身への宣言

が入っています。

一見すると、かなりバラバラです。

ただ、完全に無関係なわけでもありません。

日頃から考えていたことが、それぞれ別の文章になり、最後に一つの場所へ集まった。

だから、後から読み返したときに、

「なんとなくつながっている」

と感じられたのだと思います。

この「なんとなく」は、決して弱いものではありません。

すべてを一つの明確な意味に閉じなくても、音やリズム、背景にある考えが共通していれば、作品として成立することがあります。

異物を恐れない


今回、最も伝えたいことは、

異物を恐れない

ということです。

突然の漢文も、

我、最も我也

という宣言も、作品の中では異物になり得ます。

それでも私は入れました。

異物は、違いを生み出すからです。

ただし、何でも入れればよいというわけではありません。

異物を入れるときには、それを受け止める別の要素が必要です。

例えばこの作品では、リズムがその役割を果たしています。

漢文が突然入っても、音の流れが続いているため、作品から完全には外れません。

また、「我、最も我也」という宣言についても、当時の私が創作について悩んでいたことを知っている読者にとっては、突然の言葉ではありませんでした。

背景が、その異物の意味を増幅してくれたのだと思います。

つまり、

異物を入れるなら、それを緩和するものか、その良さを増幅させるものも入れる。

これが、異物を単なる違和感で終わらせず、作品の個性へ変える方法の一つだと考えています。

今回のまとめ


『難無何成』が生まれた過程から、私は二つのことを学びました。

一つ目は、

一つの作品の中に、複数の自分を入れてもいい

ということ。

面白さを求める自分。
意味を求める自分。
社会を見る自分。
恋愛を書く自分。
自分自身を励ます自分。

それらを一人に統一しなくてもいい。

二つ目は、

異物を恐れないこと。

ただし、異物を孤立させない。

音、リズム、背景、思想。

何か一つでも橋になるものがあれば、異物は作品の違いになります。

そして、そうしたものを生み出す種は、日頃自分が疑問に思っていることの中にあります。

普段考えていることを掘り下げる。

それを言葉にして残しておく。

別々に生まれたものでも、いつか組み合わさり、一つの作品になるかもしれません。

今回の記事が、何か面白いものを作るための参考になれば嬉しいです。

また、

「この作品も解説してほしい」

「これはどうやって考えたの?」

といったことがありましたら、ぜひコメントやDMで教えてください。

私なりにお答えし、一緒に考えられたらと思います。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

良い一日を。

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