『無間天國』 第一話 未練
あらすじ
大雪の日、アンヌ・ブレッダは父ロメルと母ベルジアに祝福されて生まれた。彼女の願いは、愛する両親とただ普通に暮らすこと。
しかしその国では、人の人格を保存し、補正し、再び生かす制度が、国家の内側で静かに運用されていた。成長したアンヌは、呼び声への父のわずかな遅れから、家族の中にある違和感を感じ取っていく。
やがてアンヌは、制度にとって置き換えられない一人の例外として見つかってしまう。
これは、保存では届かない一人の名と、遅すぎる応答の物語。

第一話 未練
あなたは成仏しましたか?
【はい】
【いいえ】 ◀︎
【まだ】
私は世界を征したかったわけでもない。
崇め奉られたかったわけでもない。
ただ救いたかった未来があるだけであって、
その未来からは逃げられてしまった。
もうどうであろうと後戻りはできないのだ。
“天國”を完成させる他はない。
-1900年某国。
この国は周りの地域を含めた大規模な戦争に巻き込まれ、あらゆる建物は爆弾によって破壊され、町は貧窮し、パニックになり、うろたえ、響く怒号、困惑し泣き出す大人。
その中で一人の青年が歩いていた。
なぜこんなことになった。
なんだこれは。
なぜ同級生は皆死に、大人は何もできず、泣き叫び、止まらぬ争いに足を突っ込んでいる。なんだこれは。
捨てられた命、捨てられた運命、これを遂行した者はとんだ阿呆であろう。
その脳内は呆れを遥かに超え、怒りに埋め尽くされていた。
青年はパン交換所へ向かった。
パンを二つもらっては、帰る途中、何十もの子供、人間にせがまれ奪われそうになった。
押し寄せた。押しのけた。
ふざけるな、のけと。私に死ねと言うのか。貴様らが責めるべきは違う人間だ。
私までも殺そうとは。私はアラジンでもあるまい。そんなジーニーのようなものがいればそいつに頼めばいい。私は生きねばならない。
お前らのことは知らない。
急いでパンをかかげ、全身はがれきとガラスにまみれ、ボロボロになりながら親のもとへと向かった。
幸い、彼の親二人は生きていた。
パンを買ってきたよ。
よくやった。
彼の親は裕福であった。医者であった。重要な職についているはずの人間らであった。
だが、今や父も母も怪我をして、そんなものを遂行できる立場でもない。ましては遂行したところでお金が入ってくるわけでもない。食料ももらえるわけでもない。
痩せ細った父親、それよりもはるかに細い母親。
私はいらない。
青年は言った。
そして父と母に、これを食べてくれと頼み、一つ一つ渡した。
感謝し食べようとすると、母親はそれを吐き出してしまった。
食べたい、生きたい、そういった思いは確実にあったはずだ。だが口に入らぬのである。体がもうそれを受け入れていないのである。
耐えられぬ、瓦解する体。瓦解する国。
それを眼の前にして青年はいかに思ったか。
正しさとは。
生きるべきものとは。
数日がたち、少年の隠れ家にいる人間は二人になった。
おまえだけは、おまえだけは生きろ。
ついに父はパンも食わなくなった。すべて私が食うように言うてきた。
一人になった。
正しさとは。
生きるべきものとは。
愚かどもめが。
許さない。
絶対に許しはしない。
-1980年某国、雪山。
アンヌは、祝福されて生まれた。
誰もたどり着けず、町の誰もが動けなくなるほどの大雪。
谷の中にあり、さらに山の奥にあるアンヌの家へ向かうには、なおさら厳しい雪であった。何かに閉ざされているような大雪であった。
そうした中で、アンヌの家の中だけは温かく、そして慌ただしく動いていた。
そこには、雪をかき分けて帰ってきた、必死の父ロメルの姿があった。
彼が見たのは、数名の助産師と、安堵した表情の母ベルジアだった。
ロメルはベルジアに目配せをした。
ベルジアは首を横に振った。
ロメルは安堵した表情でコートを脱ぎ、すぐにアンヌの方へ行った。
ちょうどその時、アンヌが泣き出した。
父ロメルはすぐに反応し、「よしよし」とあやしてみせた。
母ベルジアは「アンヌ」と名前を呼んだ。
アンヌはそれが分かっていたのか、分かっていなかったのか、少し安堵したように身じろぎ、やがて泣くのをやめた。
その表情。その動き。その生命力。
紛れもなく、アンヌは生きていた。確かな、確かな命であった。
何とも言えぬ表情で見つめる母ベルジアと、父ロメル。
助産師が差し出してくれたお茶を飲むことも忘れ、親二人は子どものようにアンヌに夢中であった。
体にまだ少し残る雪を振り落としながら、ロメルは「よかった、よかった」と、ひたすらに言った。
彼は、ここにいたかったのである。
ここに、父として、生きた本人として存在したかったのである。
すべてをかき消すような雪の中で、小さな、だが確かに温かく、生まれた命。
ベルジアは名前を呼んだ。
「アンヌ」
ロメルもすぐに、一緒にその名を呼んだ。
「アンヌ」
二人は、ふにふにとした手を、そっと握ってみた。
「アンヌ」
「アンヌ」
何があっても、この美しい命を守り抜こう。
二人は本気でそう思った。
何か使命があったわけではない。ただ、その命を前にしてそう思ったのである。
今後、何があっても。
ベルジアは強くロメルを見つめた。
ロメルは、振り絞るような気持ちで、決心を全身で表すかのごとく見つめ返した。
ロメルはベルジアの手を握った。
そこには、輪があった。
命と、愛と、祈りの輪である。
確かにその瞬間、三人の命はつながっていた。
アンヌは、決して一人ではなかった。
「出生届を、今お書きになりますか」
助産師の一人が尋ねた。
「ありがとう。ただ、今はいいんだ」
ロメルはそう言った。
この瞬間、この三人が命を共有し、全力でつながっているこの瞬間を、彼らはまだ味わっていたかった。
途切れてほしくないと思った。
途切れまいと思った。
途切れさせまいと思った。
ロメルは、ベルジアの手を改めて強く握った。
この三人にだけは、どんな大雪も届かなかった。
その瞬間、三人の鼓動は、確かに一拍も遅れず、共に音を刻んでいた。
その日、三人のあいだに、まだ遅れるものは何もなかった。
