【SS】11月2日、死者の日
11月2日は、キリスト教では死者の日である。キリスト教でこの世を去った全ての信徒を記念する日なのである。かつてカトリックでは人間が死んだ後、罪の清めが必要な霊魂は煉獄での清めを受けて天国に行けるようになる。それを生きている人間のミサによって清めの期間を短くすることができると言われていた。それで、煉獄の死者のために祈るという日が死者の日として設定されたようだ。
今でも、罪を犯して無くなったかたは大勢いるし、その家族は耐えられないほどのバッシングを受けながら生きていくことになる。そんな時、死んでしまった罪深い人の罪が少しでも軽くなればと願うのは家族としては当然なのかもしれない。家族にとっては優しい存在だったのかもしれないから。
一方、被害者の心情としては、許しがたい事件を起こした張本人であり、理由がどうであれ家族を奪われた悲しみは取り返しようがない。だから、その原因を作った張本人は極刑に処してほしいと願うわけである。加害者と被害者はお互いの立場を理解し合うことは困難であり、歩み寄ることはない。
それでも、死者の日という日が設けられているということを考えずにはいられない。全ての罪を許すということもできないかもしれないし、許して欲しいとも言えないのかもしれない。それでも、同じ種として考えなければならないケースも存在するような気もする。見るからに極悪非道な事件の場合で同情の余地はないケースもあれば、一生懸命仕事をしていた延長線上で人に予期せぬことで危害を加えてしまった場合もあるのだろう。当事者しかわからないことかもしれないが、被害者の言い分を全てとして受け入れてしまうと意図せずに加害者となった人の人生をも奪ってしまうことになってしまう。果たしてそれが正義なのか。正しい判断なのかと思ってしまうことはある。あくまでも、当事者ではないからそう思うのかもしれないが。
人間である以上失敗はする。しかし、その失敗した時の対応が最善だったとすれば、もう少し歩み寄って考えてあげてもいいのかもしれない。おそらく当事者としてその場にいたとしたら、感情のほうが先行しすぎてそうならないのかもしれない。
人にとって不足しているものや、恨みを持ってしまった人への感情、やるせない思い、ぶつける先がない感情なども融合して、加害者意識や被害者意識が増幅されるのかもしれない。生きている人間であるが故の性なのだろう。われわれはイエスキリストにも阿弥陀如来にもなることはできない。一人の生きている人間としての感情に左右されるだけなのである。
そして、その感情を誰も責めることはできない。「死者の日」という記念日を知ってそんなことを考えてみた。
了
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