なんちゃって西洋美術史12  「シュルレアリスム」

 本稿は、ジャンルの名前は知っていて作品のイメージはなんとなく湧くものの、実際にどういう流れなのかと聞かれたら答えに窮する人が多いのではないかと思われる「シュルレアリスム」について概観していこうと思います。直感だけではなかなか理解しづらいシュルレアリスムを、この記事だけ見れば素描くらいはつかめるよう頑張ってみますので、お付き合いのほどよろしくお願いします。

 

 シュルレアリスム(仏:surréalisme)



 最初に、この語の意味から解説していきましょう。フランスの詩人ギヨーム・アポリネールの記述が起源と言われているこの言葉。同じく詩人のアンドレ・ブルトンが借用し、ちょうど百年前の1924年『シュルレアリスム宣言』という著作で定義したことで、大々的に運動として開始されました。「シュル」は日本語で「超える」(英語だとスーパー)を意味し、「レアル」は「現実」(英語だとリアル)、最後のイスムは~主義的なイメージを持ってもらえればいいです。合体させると「超現実主義」。なんか取っ付きづらく仰々しい字面になってますが一つずつ理解してもらえれば恐るるに足りません。

 超現実と聞くと、シュルレアリスムで真っ先に思い浮かべるだろうマグリットやダリの不思議な雰囲気と合致し、なにか現実ではない向こう側を描いている潮流か~!と理解されるかもしれません。実はその認識は間違いです。この「シュル」「超」が意味するのは、「超える」というより、強調、強度を意味する「超」なのです。超凄い!なんて言いますよね。この表現は別に凄いを超えているわけではありません(そう捉えると、そもそも意味がわからない)。すると、このシュルレアリスムは「めっちゃ現実!!」を表現する芸術の流れとなるわけです。じゃあその「めっちゃ現実!!」ってなんなのかを、以下、紐解いていきましょう。

 ここでちょっと時代背景を確認します。上で『シュルレアリスム宣言』が発表されたのは1924年と書きましたが、この年のちょっと前には第一次世界大戦がありました。未曾有の殺し合いを経験したヨーロッパは、人間理性を称揚してきた既存の価値観を疑うようになっています。当然、ブルトンをはじめとした芸術に携わる人々もそれまでの創作に疑問を呈するようになり、新しく、まさに置かれた「現実」に即した表現を模索していました。まず、全ての価値を否定、破壊するタイプの運動としてダダイスムが勃興し、その後生まれたのが今回のシュルレアリスムなのです。幾つかの技法を見ていきながら、その全体像を浚っていくことにします。

 まずは自動記述(オートマティスム)という方法から。人間理性に疑問を感じていた人々は、ほんとに俺達は全てを正しく認識し、コントロールできているのか?と、人間を、もっと言えば私(主観、主体)を疑うところから始めます。むしろ無意識的なもののところにこそ、より濃く人間的、美的で、正しいものがあるのではないか?これは、換言すれば、曖昧な主体(意識)を排して、より芳醇で「強固な」客観を求める運動と考えることもできます。じゃあそれを表現にもたらすためにはどうするか。ブルトンはここで自動記述という方法を試します。簡単に言ってしまうとこの方法は、(ブルトンにとっては詩作ですが)取り敢えず何にも考えずに高速で手を走らせ(まさに超スピードです)、意識の介入する以前の表現を取り出すものです。そこで現れる言葉は、例えばブルトンの作品名『溶ける魚』で見られるように、普通に考えていると接続されない「溶ける」と「魚」が癒着しており、わたしたちの認識を揺さぶるものになっています。また、この自動記述でよく見られるのは単語の並列的な使用であり、そこではそれ以上奥へ行けない岩盤のような印象を受けます。主体を置き去りにする速さで書かれたそれは、もはや私でない誰かが書いている。ここに、通常の主体からでは辿り着けない、より豊かな客観を見るわけですね。

 勘のいい人なら、この自動記述の解説をみれば、無意識の発見者であるジークムント・フロイトを用意に思い浮かべるでしょう。普段わたしたちの心は生活を効率的にするため、無意識的に、表面上は必要のないものを無視し、考えたくないものは避けるようにする機能が備わっています。全部が全部入ってきたらぶっ壊れてしまうでしょうね。特に、なにか悲しいことがあったときや、過ちを犯してしまったときなどは、それを引き受けすぎると精神が参ってしまいます。こういったものに対しては、心は逃げようとする。が、完全には逃げられない。すると無意識の側から様々な方法でそれらが現実に漏れ出てきます(フロイト ルーシー でググると有名な症例が出てきます)。わかりやすいのが「夢」ですね。悪夢では、避けてきたものが手を変え品を変え、いろいろな仕方で現れることがよくあります。フロイトがこの夢を積極的に分析したのはそこにより強固な現実があるからです。現実の拡張といってもいいかもしれません。通常の認識がもちろん全て間違っているわけではないですからね。無意識を踏まえた、世界に対するより深い理解が求められているのです。


 ブルトンをはじめとしたシュルレアリストがやっているのはこれと同じことでして、ダリやマグリットの作品が荒唐無稽で夢のような表現になっているのは、こういった現実理解に裏打ちされているからなのです。結果として夢(半醒半睡といったほうがいいかもしれません)と同じような表現になっている。だから、彼らが描いているのは、別に現実世界を「超えた」ファンタジックな世界ではなく、現実世界をより深いレベルで「強化」拡張しているものになります。このようにシュルレアリスムを捉えますと、別に作家自身はシュルレアリストとして描いている訳ではなくでも、作品がその潮流で理解されることもあります。(他の潮流でもこのことはもちろんあります)。
 実はブルトンは大戦で中断されるまでは精神医学を勉強していた学生で、そういった彼の興味関心からもシュルレアリスムとフロイトは繋がってきます。彼がシュルレアリスムによって幼年時代の最良の部分を再び生きる、なんて言っているのにも、直接的であれ間接的であれ影響を物凄く感じることができますね。この自動記述はもちろん絵画芸術の方でも試され、アンドレ・マッソンの自動デッサンやジョアン・ミロのデッサンにみられます。近くではポロックのアクション・ペインティングなんかも、コントロールされきれないという意味で、この系譜で考えることは可能だと思います。
 
 
 ざっとシュルレアリスムの根幹を理解したところで、以下では絵画を始めとした視覚芸術に絞って確認していこうと思います。はじめに覚えたいのはマックス・エルンストという画家です。ドイツ生まれの彼は、理性、主体のコントロール外の方法を探り、様々な方法を編み出します。部分部分で切り出し、対象同士が結びつくままに任せて貼り付ける「コラージュ」や、絵の具を紙に塗りたくり別の紙に転写させたりそのまま折り曲げたりして、偶然できる色彩や形状を利用した「デカルコマニー」、凸凹したものの上に紙を敷き、それを鉛筆などで擦って浮かび上がった形を使う「フロッタージュ」など、主体のはたらきを排除した表現を幾つも開発しました。これらは義務教育で全然やらされるので、みなさんもほとんど知っているでしょう(でも、まだ主体ができる限りのコントロールさえままなっていないレベルの学生に、無意識レベルの表現を思想的説明もなしにさせるのは、どうなんでしょうね?笑)。とまれ、これらの方法を使って作成された彼の絵には、主体的にコントロールされた身体からは生み出されないような複雑さや細部があり、その奥行きに、グロテスクなほど凄まじいリアリティ、生々しさ、世界そのものが表現されています。


 でも先に代表作家として挙げたマグリットとかはそんな技法使ってなくない?どの辺がシュルレアリスムなの?という声が聞こえてきそうなので、彼らを理解するためのキーワードとして「デペイズマン」(仏: Dépaysement)という概念を紹介します。シュルレアリスムと同じように言葉を分解して説明しましょう。「de」は「離れる」、「ペイ」は「国や故郷」「あるべき場所」のイメージで捉えてもらえるといいです。で、これらを名詞化する「ment」をくっつけると、「あるべき場所から離れる」、「異なった場所に置く」って概念になります。わかりやすい例を挙げますと、シュルレアリスムの写真家として有名なマン・レイの『解剖台の上でミシンとこうもり傘が偶然出会ったように美しい』(タイトルまんまの作品)や、室内のほとんどを埋め尽くすほど充填されたクソでかいリンゴが描かれ、意味深なタイトルも相まって我々の通常認識を破壊更新するマグリットの『リスニング・ルーム』があります。意味が一旦剥奪されたこれら対象は、対象それ自体として、より豊かな裸のままの姿でもっての認識を私たちに求めるでしょう。私たちが対象を認識するのではなく、対象の側から認識が始まるのです。この主観から客観への転化の考えは、自動記述にも繋がってきますね。別の場所に置かれることで通常の認識が排除され、客体それ自体として提出されるといえば、便器に自分のサインをして展覧会に応募したマルセル・デュシャンの『泉』も有名なデペイズマンとしての表現でしょう。

 主観、主体は英語で「Subject」、客観、客体は「Object」ですが、後者の「Object」という単語がフランス語で「オブジェ」になります。美術をみるとき「オブジェ」という単語はなんの気なしに使用されていることと思いますが、こうやってシュルレアリスムを介してもう一度考えてみますと、なかなかこれまでと違った受け取り方ができますよね。デュシャンの便器なんてまさにこの「オブジェ」です。この客観、客体をもとにした「オブジェ」概念は、単なるモノとしての美術、それを通して神をみる窓としての美術という芸術理解で語ってきたこの美術史において、まさにその系譜に連なるものなのです。それを通じて神(完全、完璧)を受け取る、そのためのモノ。オブジェとはそんなモノそのものなのです。
 
 
 名前を出したくせに言及がないのはどうかと思うので、最後にダリの作品の根幹を考えますと、彼の絵は主観をぶっ飛ばした結果、客観を突き抜けて翻ってしまったというようなイメージでいいと思います。逆に客観の側からぶっ飛ばして主観を~でも同様なことです。世界を客観的に突き詰めた結果、世界そのものとしての〈私〉、存在そのものに出会う(私を主観的に突き詰めた結果、私そのものとしての世界に出会う)。彼の絵が非常にプライベートな様相を呈しながらも、それ以上のものを感じるのはここに由来しているのでしょう。これより先は概観を「超えて」しまうので他に譲ることにします笑。


 
 今回は以上になります。「シュルレアリスム」って単語、「超現実」って言葉の指す意味を確認していただけたのなら本稿はそれで十分でしょう。一見世界から浮遊したような表現が、実は逆説的により現実を追い求めていて、それが実際に描かれていること。最低限この理解さえあれば変に恥ずかしい間違いはなされないと思いますので、それだけ持ち帰って貰えれば幸いです。ではまた。

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