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日航123便墜落事故に関わる上野村の黒澤村長の話

 日航123便の墜落事故にまつわる話を。墜落した場所は群馬県上野村なのですが、当時の村長であった黒澤丈夫氏(くろさわ たけお、1913年12月23日 〜2011年12月22日)にまつわる話を紹介します。
 123便の真相については、故森永卓郎氏など政府の陰謀論などで書籍を発刊しておりますが、今回はあえて言及しないでおきます。

■実は零戦パイロットだった黒澤村長

 この黒澤丈夫氏という方なのですが、村長自ら陣頭指揮をとり、遺体の収容作業や救難作業の見事な指揮ぶりがTVやニュースなどで話題になりました。 
 それもそのはず、この方は元零戦パイロットで、なおかつ、飛行隊長や作戦参謀などで実際に戦場での指揮をとられた方だったのです。 

若き日の黒澤丈夫氏

 黒沢氏は1932年に海軍兵学校に入隊し、1936年に卒業後、巡洋艦や駆逐艦に乗組みました。アメリカ合衆国のニューヨークまでの遠洋航海に出た時に黒沢氏は、日米の国力の差に圧倒され、アメリカ合衆国の生活の豊かさを嫌というほど思い知ったといいます。
 その後、航空隊への転任を希望し、1937年に霞ヶ浦海軍航空隊に配属。戦闘機操縦士として訓練を受け、中国大陸で九六式艦戦に乗り込みます。
 1941年の太平洋戦争開戦後、零戦の飛行隊長としてフィリピンへの空襲を指揮し、以降、南方での作戦に従事し、特にバリクパパンでの戦闘で成果を上げます。

1944年には第381海軍航空隊の飛行隊長に任命され、南方の防空任務を担いましたが、連合軍の攻勢が激化。終戦時には72航空戦隊の作戦参謀として勤務していました。  戦争の激化と共に、彼は多くの困難を乗り越えつつ指揮官としての役割を果たしました。  
 戦後は地元に帰り、上野村の村長を勤め上げます。零戦パイロットたちの「NPO法人零戦の会」というのがあるのですが、最高齢でご活躍されてもいました。

 『零戦最後の証言』(光文社文庫)などにもそのお一人として、掲載されており、「あぁ、あの時の村長さんだったのか!」と思いながら読んだ記憶があります。  
 さて、この黒澤村長と日航123便の事故にまつわる不幸な因縁の話が実はあるのです。

■日航123便墜落事故に関わる不幸な因縁

 JALが発刊してる自社の機関紙「Winds(ウィンズ)」があるのですが、各種の企画ページがあり、全国47都道府県のユニークな人物を交替でインタビューして紹介するという企画が当時は、毎月掲載されていました。
 そして、1985年の9月号は群馬県だったのですが、その群馬県の数ある市町村のなかから選ばれたのが、事故機の墜落現場、上野村の黒沢丈夫村長だったのです。

 村長への取材が実施されたのは、事故のわずか2ヶ月前、6月のことでした。
 そして、なんという偶然なのか、その事故機に積まれていたのが『ウインズ』85年9月号だったのです。

 日本航空がこの不幸な偶然の一致に驚き嘆く事態になってしまうこと、インタビューを受けた黒澤村長がこの不幸な因縁に公私ともに振り回されることになるなど、予測できるものではなかったと思います。

 それにしても全国に47もある都道府県のうち、よりによって群馬県が選ばれたのはなぜなのでしょう。
 そして、まったくの偶然とはいえ、事故が起きた上野村の村長が取材対象者に選択されてしまったのはなぜなのでしょう。そして墜落していく123便の中の雑誌に落ちていく場所の村が掲載されていたなんて。
 まさしく天文学的な偶然の一致であると思います。

■「今年は世界的な注目を浴びることになる」と予言されていた黒澤村長


 実は村長自身にも、不思議な偶然が働いていたそうで、その年の始めに村の占い師に次のような予言を聞かされていたことがその後の取材で明らかになったそうです。

 「今年は、あなたが世界中に注目されるような出来事が起こる」と。

 これはまた随分と大げさなことを言われたなと思った黒澤村長は、家に帰って奥さんにその予言の話をしました。
 6月に取材を受けた時も、珍しいことではありましょうが、まさかこの取材では、世界的な注目を浴びるほどの内容ではないと思ったのでしょう。
 しかし、その年の8月にこの村に突如落ちてきた123便の墜落事故。

「あの予言はこの事故のことを言っていたのね・・・。」騒ぎの最中に奥さんは村長にそういったといいます。

 この『ウインズ』9月号は、「乗客や遺族の方が事故を思い出すことがあってはならない」との日本航空の意向から、すべて廃棄処分にされたそうです。
 村長の二ヶ月前のインタビューの数々はこの大事故によって葬り去られることになりました。

 偶然とはいえ、あまりにも天文学的としか表現できない、不幸な偶然の一致であったと思います。
 
 山崎豊子著作の「沈まぬ太陽」は、この123便の事故を一応名前を変えて書かれていますが、この黒澤丈夫村長は実名で描かれています。

 実際の話として、昭和60年12月20日、身元不明のため引き取り手のいない遺体の一部を納めた、棺を前にして執り行なわれた、日本航空機ご遭難者身元不明者ご遺体出棺式で黒澤氏は式典の施主として以下の式辞を述べられたそうです。

以下「沈まぬ太陽」からの引用なのですが、 心を打たれる言葉です。

 惟時、昭和60年12月20日、上野村長 黒澤丈夫ここ前橋の地に祭壇を設けて国民航空機遭難諸霊を祭り 謹んで御遺体に決別の辞を捧げます。
 事故を振り返って、故障発生後30分諸霊が死の恐怖と戦いつつ、肉親を思い悩まれ、搭乗機能回復を祈られた心情を思えば、我等の胸は張り裂けんばかりで、惻隠の情を禁じえません。
 肉親への恩愛の情は、理を超越して限りなく、人生一日も長かれと希うは万人の望み、それを突如、発生した事故ゆえに、消滅されせられた諸霊とご遺族の心中を察すれば、生者必滅は人の世の定めとは言え、余りにも非常な別離に誰か涙なきを得ましょうや。
 況(ま)して一命を失うだに不運なるを、死して尚両親のもとに帰り得ない諸霊の非運を思えば、涙更なるを覚えます。
 噫(ああ)、天も哭け地も哭け。我等上野村民は今、諸霊に肉親の情を覚えつつ、ご遺族に連なる心で霊を迎えようとして居ります。
 霊よ、安らかに上野村の天地にいだかれ給え

「沈まぬ太陽」より

 かつて零戦搭乗員として多くの同僚が戦場に散るのを見てきた、当時、72歳の村長の式辞には、崇高で、魂を揺さぶるような響きがあります。 二度と起こしてはならない事故との訣別の決意が籠められていると思います。


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