空の戦艦と言われた飛行艇。二式飛行艇
私が最も好きな飛行機の一つです。二式飛行艇。通称、二式大艇。
日本が生んだ最高傑作の飛行艇として有名ですね。製作会社は水上機製作にめっぽう強い川西航空機。その後、新明和工業となって今も現役で活躍しているUS-2を開発しています。今日はそんな他国からも認められた優秀な飛行艇の話を。
■二式飛行艇の誕生まで
1930年代、日本海軍はワシントン海軍軍縮条約やロンドン条約により艦船の数の制限において対米英劣勢を強いられます。そのため、制限のない軍用機を開発して、艦船と同じような攻撃力を持たせようとしました。いわば航空打撃戦力で艦船の劣勢を補おうという算段です。
しかしながら、軍事施設の建設も禁止なので、では、長距離攻撃をできる水上飛行艇を開発しようと計画しました。こういう抜け道というか、裏をつく考え方を良く思いつきますね。昔の軍人さんは国家の存亡がかかっているのですごいです。
こうして生まれたのが、陸上基地も必要なく、水上から離発着ができ、長距離飛行もでき、敵艦隊を打撃できるという要求になり、それが開発コンセプトになりました。
こうした中で最初に実用化されたのが、川西の九七式飛行艇です。
1936年に最初に実用化され、最大速度385 km/h、攻撃過荷重状態での航続距離は約5,000 kmに達しました。


二式飛行艇はこの後継機という位置づけで、当時の外国機が求める性能を上回ることが要求されました。相変わらずの無茶振りの海軍の要求に応えたのが十三試大型飛行艇(のちの二式飛行艇)ということです。
ライバルは中島飛行機の「深山」。しかしながらこの機体は参考にした機体がアメリカの欠陥機ダグラスDC-4Eという機体であったため、トラブル続出で不採用になります。
菊原静男技師が設計主務者となり、九七式飛行艇の経験を活かしながら高性能の四発大型飛行艇として完成、数々の諸問題を修正して、1942年に制式採用が決定しました

全幅38.00 m 全長28.13 m 全高9.15 m
自重18,400kg 正規全備重量24,500 kg
三菱火星二二型(離昇1,850馬力) 最高速度465 km/h(高度5,000 m)
航続距離 7,153 km(偵察過荷)
武装20mm旋回銃5門、7.7 mm旋回銃4門(3門は予備)
爆装爆弾最大2t(60 kg×16または250 kg×8または800 kg×2) または航空魚雷×2
乗員 10〜 13名
■二式飛行艇の特徴
完成した二式飛行艇は、なかなかの新機軸を盛り込んでいます。特にとりあげたいのは親子フラップと波消し装置かと思います。
親子フラップ: 現代で言うところのファウラーフラップとスプリットフラップを組み合わせたフラップで、川西機独自の特徴です。調べたけど出てきませんでした。
多分「二式飛行艇」の書籍には掲載されていると思われます。
このフラップのおかげで高翼面荷重と離着水性能を両立できるようになりました。

波消し装置: 水上滑走中の飛沫を抑えるため、艇体前部下面に装備された波制御板。俗称”かつおぶし”だそうです(笑)

さらに機内には、大型の20 mm機銃に合わせた動力銃座、燃料タンクへの防弾、長時間飛行を考慮した便所や仮眠用のベッド、食料保管用の冷蔵庫、無線室も設置されているとのこと。もはや動く要塞みたいです。重火器もこれだけ多いので”空の戦艦”と言われていたのも頷けますね。
■真珠湾再攻撃の作戦に出動
さて、その実戦と戦果なんですが、最初の実戦は正式採用前に行われています。あの有名な真珠湾攻撃の後の二度目の作戦、通称K作戦(Wikipedia)と言われているものです。
真珠湾攻撃の大戦果の後、急ピッチで復旧しているアメリカに対し、今度はこの二式飛行艇たちで攻撃をしようという作戦です。結局は二式飛行艇2機と潜水艦4隻しか準備できなくて損害がほぼゼロで終わってしまうのですが、この頃から連戦連勝の油断が日本海軍に忍び寄ってきています。
またラバウル撤退では夜間に敵の包囲網をかいくぐって、15機によるピストン輸送で600名にも及ぶ兵士を救出するという活動も行っています。
■他の飛行艇と運用方法が違っていた悲劇
この二式飛行艇は、他国の水上機と比較しても優秀な性能を示します。
当時の他国の飛行艇というと、イギリスのショートサンダーランド(最高速度330km/h)、アメリカのマーティンJRM飛行艇(最高速度356km/h)やPBY カタリナ(最高速度312km/h)などが有名ですが、最高速度においても、航続距離においても操縦性においても上回っていました。
ただ、他国の飛行艇ですが、運用方法が全く違うので、それをもって二式飛行艇が優秀だ!すごいんだ!というのも少し語弊があるので補足をしておきたいと思います。
ショートサンダーランドはドイツのUボートの撃墜任務、救難、哨戒が任務でした。マーティンJRMは陸上哨戒、輸送任務。PBY カタリナも対潜哨戒、沿岸警備、海難救助が主な目的です。
いわば、表舞台というより後方での支援活動や制空権下の運用が主な任務なんですね。なので、そこまで高性能は求められていないというのがあります。

(下)PBY カタリナ
そもそも1940年代には飛行艇は制空権下でも後方任務ぐらいしか使えなくて、 過大に開発リソースを費やすこと自体が他国では必要なかったというのもあると思われます。
二式飛行艇が戦後のテストを受けた時、「飛行艇の技術では日本は世界に勝利していた」と称賛していたとのことですが、裏を返せば「そこまで飛行艇に求める必要があるのか?」という事かもしれませんね(^^;)
二式大艇が高性能だったのは、機体寿命を短めに設計したからだという声もあります。コストは零戦10機分に相当したとか。
なので運用方法が最前線突入なので、167機生産されていたにもかかわらず、終戦時に残っていたのはわずか5機のみでした(輸送型の「晴空」を入れると11機)。
優秀とはいえ、敵戦闘機に遭遇すると、いかんせん旋回銃では対抗できず、高度を下げ海面すれすれで逃げ惑うしかなく、無念に撃墜される悲劇がしばしば繰り返されたとのこと。
■有終の美を飾った二式飛行艇
最終盤の沖縄決戦のあたりが二式飛行艇が一番活躍した戦場だったかもしれません。それはこの機体に搭載されている大型の電信装置を活用した索敵任務でした。
飛行艇の夜間電探索敵が有効である事が確認されて、夜間に二式飛行艇が実施した電探索敵の情報を受け、早朝出撃した彩雲、百式司偵の黎明偵察を行い、特攻作戦を支えました。
夜間索敵戦術で米夜間戦闘機との対決を切り抜けながら沖縄決戦を戦い抜き、残存機の殆どが失われて刀折れ矢尽きた状態で、二式飛行艇部隊は終戦を迎えます。
1機はアメリカでテストのために持っていかれ、その後、日本に返還、船の科学館→鹿屋航空基地史料館に展示されています。
■現代に生きる技術力
二式飛行艇の設計主務者であった菊原静男技師ですが、その後は局地戦闘機「紫電」「紫電改」の設計を担当。
終戦後は川西航空機の後身である新明和工業で、再度国産飛行艇PS-1の制作に携わります。今も救難飛行艇として大活躍しているUS-2へとその技術は受け継がれています。

